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第7話 折る①

 土曜日の朝、研究室へと向かう私の足取りはいつになく重い。鈍く残る頭痛は、アルコールが抜けた証拠だ。だが、脳裏にこびりついて離れない記憶だけは、どんなに水を飲んでも洗い流せそうになかった。


 ……やってしまった。


 目を閉じれば、昨夜の自分が鮮明に再生される。薄暗いカラオケボックス。派手な原色のライトに照らされた、姫乃の真っ赤な顔。あろうことか、未成年の教え子の前でビールを煽り、挙句の果てに。


『私だって今すぐこの両脚を折って、研究予算の申請書にレントゲン写真を添えてやるよ』


 ……死にたい。あんなものはただの暴言だ。大人としての知性も、矜持も、すべて中ジョッキの中に溶けて消えていた。


 さらに最悪なのは、その後の自分のテンションだ。姫乃の車椅子のハンドルをひっ掴んで外に放り出し、『商談成立』などと叫んだ。記憶がある分、余計に質が悪い。


「あ、園田准教授! おはようございます」


 背後から快活な声が響き、私は肩を跳ねさせた。振り返ると、阿久津ゼミの院生、田中結衣が書類の束を抱えてやってくるところだった。彼女は阿久津教授の秘書兼雑用係として、常に教授の側にいる「敵陣営の窓口」だ。


「……おはよう、田中さん。朝から忙しそうだね」


「もう、大変なんですよ。昨日、園田准教授が駒路さんを連れてドロンしちゃうから、教授の機嫌が最悪で。私、その後ずーっと愚痴を聞かされてたんですから」


 結衣は「助けてくださいよー」とおどけて見せながら、声を潜めて私の耳元に顔を寄せた。


「教授、日曜日の講演会で、駒路さんにサプライズで登壇してもらうつもりだったみたいですよ。『悲劇の歌姫が再起を誓う』、みたいな感動の演出を考えてたのに、打ち合わせもできずにお持ち帰りされちゃったから、メンツ丸潰れだって」


 結衣の言葉に、私の眉間がピクリと跳ねた。


 そうだ。日曜日。酔った勢いで、私は彼女に「日曜日の十三時」と指定したのだ。阿久津の基調講演が始まる、まさに一時間前を。

 ……やるしかない、か。


 後悔の波は、一瞬で冷徹な計算へと塗りつぶされていく。姫乃に「ヤバい人」だと思われたのも、もう手遅れだ。ならば、自分の知的欲求に従うしかない。


「情報ありがとう、田中さん。……またね」


 結衣に短く手を振り、私は自分の研究室へと向かった。指紋認証を経てオートロックが解錠される、カチリという乾いた音。それを境界線にして、外界の喧騒は遮断される。サーバーが放つ一定の排気音と、使い古された機材の匂いが、二日酔いで散らばった思考のピースを強引に繋ぎ合わせていく。


 私は気持ちを切り替える意味も込めて白衣の袖に腕を通した。


「あ、志保ちゃん? うわ、やっぱり。顔色ひどいですよ。昨日の夜、姫乃ちゃんに『志保ちゃんに酒を飲ませるな』ってLINE入れたんですけど、遅かったみたいですね」


 デスクで作業をしていた早智が、呆れたようにこちらを振り返る。私は白衣のボタンを掛け違えたまま、彼女のデスクを叩いた。


「早智。明日のメインホールの図面と音響システム、それから阿久津教授の基調講演の進行表を全部持ってきて」


「……は? 先生、何言ってるんですか」


「駒路姫乃の生ライブ、聴きたくない?」


 一瞬、早智の動きが止まった。その目が、驚きから「理解」へと変わる。私は自分のデスクへ崩れ落ちるように座ると、スマートグラスの光の中にダイブした。


 昨夜の恥をかき消す唯一の方法は、あのアルコールの濁流の中で思いついた「最悪で最高の計画」を、完璧に完遂することだけだ。


◇◇◇


 約束の日、日曜日の十二時四十五分。


 大学の校門をくぐったところで、私は一人の老紳士に呼び止められた。仕立てのいい三つ揃いのスーツに、銀縁の眼鏡スマートグラス。どこかの名誉教授か、あるいは大きな企業の役員だろうか。  


「お嬢さん、少しいいかな。メインホールはどちらの方向かね?」


 老紳士は穏やかに微笑み、銀縁のスマートグラスに表示された地図を困ったように見つめていた。  


「……あちらの、一番大きな時計塔のある建物です」


「ああ、あそこか。ありがとう。ある人にね、『今日、この国で一番のエンターテインメントが見られる』と誘われて来たんだが。……老いぼれに最新の地図は使いこなせなくてね」


 老紳士は身に着けた銀縁をコツコツと叩いて楽しげに目を細めると、軽やかな足取りで歩き出した。


 ……この国で一番のエンターテインメント。絶対、志保先生だ。志保先生、いったい何を考えているんだろう。


 あの夜、カラオケボックスで聞いた彼女の「暴力的な使い道」という言葉が、不吉な予感とともに脳裏をかすめる。けれど、同時に私の指先は、車椅子のハンドリムを回す力を強めていた。


 戸惑いと、正体の知れない胸騒ぎ。その両方に背中を押されるようにして、私は園田研究室の扉を叩いた。視界の端で、「13:00」のリマインダーが無機質に点滅している。


「失礼します……」


 園田研究室のオートロックが開き、おそるおそる中に入ると、そこには私の知っている「冷徹な知性」の欠片もない姿があった。先生はデスクに突っ伏し、傍らには冷えピタと空になったエナジードリンクの缶が散乱している。


「……来たわね。待ってたわ」


 顔を上げた先生の表情は、土気色だった。スマートグラスが少し斜めにずれているのを直しもせず、深く、深いため息をつく。


「……まず、謝らせて。あの夜の私は、摂取したアルコールが処理能力を超え、脳内の抑制機能が著しく低下していた。結果として、君の身体的な境遇を研究予算と天秤にかけるような、およそ知性とは程遠い暴言を吐いた。……あの時の私は、私自身の倫理規範から最も遠い場所にいたわ。本当に、申し訳ないことをしたと思っている」


 志保先生は、机に突っ伏したまま、消え入りそうな声で絞り出した。 難しい言葉を並べてはいるけれど、それが彼女なりの、一切の誤魔化しを排した全力の謝罪であることは伝わってきた。


 「姫乃ちゃん、翻訳するとね。『あの夜の自分の発言を思い出して、今、身悶えするほど後悔してる。恥ずかしくて顔を見られないけど、傷つけたことは本当に反省してる』……だそうですよ」


「早智。……だいたい合ってるけど、代弁しなくていいから」


 先生は顔を上げないまま、耳まで赤くして抗議する。私は、その不器用さに、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩むのを感じた。


「……それじゃ、契約の話を聞かせてください。先生は私の歌にどれくらいの価値があると思いますか」


 先生は顔を上げ、ずれた眼鏡を机に置くと、口元に笑みを浮かべた。その表情には、先ほどまでの気まずさは残っていなかった。


「提示できる対価は二つ。そのどちらか、もしくは両方を支払うわ」


 先生は指を二本立てて言った。


「まず一つ目は、専属の年間契約料と、ステージごとの出演料。一年間、姫乃の歌を私が独占的に使わせてもらいたい。……もちろん、体調や気分で出演を断ってもらっても構わない。舞台に立つときは、別途出演料を払う」


 先生はスマートグラスを操作し、私の視界に数字を表示させた。それは同情で投げられる端金ではなかった。彼女が私の声を「独占する」ために用意した、本気の金額だった。


「そして、もう一つ。……正直に言う。わからない。姫乃が望むものを対価として支払う。いわゆる、言い値で買うということ」


 先生は私の車椅子の前にしゃがみ込み、真っ直ぐに私を見た。


 あの日のことを思い出す。植え込みで動けなくなっていた私を助けてくれた後、車椅子のことなど気にもかけず、ただ私自身だけを見ていた、あの目。遠慮も同情もない、むき出しの好奇心。あの瞬間から、私は逃げられなくなったのだと思う。


「先生、必死すぎますよ」


「君が一番大切にしているものを売ってもらうんだ。私には正当な値段なんてつけられないと思っただけ」


「それなら、一つお願いがあります」


 私の言葉に、先生は少し意外そうな顔をして、「ああ、なんでも言いなさい」と初めて満足げに笑った。


「……あの夜、先生に駅で一人にされた後、また笠松舞に捕まったんです」


 そのときのことを思い出すだけで、腹の底が熱くなる。先生は眉をひそめ、「……ごめん」と短く言った。


「一人でホームに向かおうとしたら、あいつ、わざわざ隣に並んで歩いてきて。『意地張ってないで、マイに歌作ってよ。その方が姫乃ちゃんも楽になれるよ』って」


 楽になれる。あいつは確かにそう言った。私が自分の歌を誰かに預けて、裏方に回れば「楽になれる」と。……私の歌はその程度だと、あいつは本気で思っている。


「……苛立って、気づいたら口が動いてました。『残念だったね、私の歌はもう別の人に売ったから』って。……だから、先生」


 私は、目の前の先生の視線を真正面から受け止めた。


「私の言い値は、先生の言った『暴力的な使い道』です。……正直、何をされるのか分からない。でも構いません。私の歌を値踏みしてきた連中を――正当に評価しなかった連中を、後悔させてください」


 私は車椅子のハンドリムを強く握り、先生に向かって身を乗り出した。


 先生は勢いよく立ち上がり、背後で話を聞いていた早智さんに短く合図した。


「えっ? どこに行くんですか」


 先生は、口元に不敵な、それでいてどこか危うい笑みを浮かべた。


「決まってるじゃない。今からメインホールで行われる阿久津の講演会よ。……あそこのインフラをジャックして、君のライブをねじ込んでやる」


「はぁ!? 先生、正気ですか!? そんなことしたら大学から追放されますよ!」


 私が慌てて止めようとした、その時。背後でキーボードを叩いていた早智さんが、涼しい顔で口を挟んだ。


「志保ちゃん、そんなことしなくても大丈夫ですよ」


「……早智? どういうこと?」


「阿久津教授ですが、秘書の田中さんが『間違えて』送ったスケジュール表のせいで、到着は予定より十五分遅れるらしいです。……つまり、講演開始までの十五分は完全な『空白』。余興として、私たちがステージを占拠するには十分すぎる時間だと思いませんか?」


 早智さんは淡々と、出所の不明な二つのスケジュール表を見せてくる……この人も大概まともじゃない。


「……ふふ。聞いた? 姫乃。お膳立ては充分ってことね」


 先生は私の車椅子のハンドルに手をかけ、真っ直ぐに私の目を見た。その瞳からアルコールの濁りは消え、研ぎ澄まされた光が戻っている。


「いい、姫乃。何が起きても、何が見えても……歌うことだけはやめないで。あとのことは、すべて私が引き受ける」


 その言葉に頷いた瞬間、私はもう後戻りできない場所へと踏み出したのだと悟った。

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