第6話 新歓コンパ③
あの会場の空気から逃げるように、私たちは駅裏のカラオケボックスへと滑り込んだ。
店員が注文した品々をテーブルに並べ、「失礼しました」と重い防音扉を閉めていく。その瞬間、私は『駒路姫乃』の笑顔を脱ぎ捨てた。
「ここ、私の行きつけなんです。ストレスを溜めるとすぐ顔に出るから。いつもここで、一人で……全部吐き出してるんです」
目の前には、真っ赤なチェリーが浮いた子供っぽいメロンソーダと、中ジョッキに注がれた黄金色のビール。それから、油の匂いが立ち込めるポテトに、唐揚げ、チーズたっぷりのピザ。
「先生、大人はとりあえずビールですよね。……はい、どうぞ」
差し出したジョッキを、先生は「気が利くじゃない」と意外そうに眉を上げて受け取った。私はストローを咥え、刺すような甘さを喉に流し込む。けれど、喉の奥の澱は、ちっとも流れてくれない。
慣れた手つきでデンモクのリストをスワイプし、マイクのスイッチを入れる。「キィィィィィン」という鋭いハウリング音が、狭い個室の静寂を引き裂いた。
無造作にビールを煽る先生の横顔を、盗み見る。ふと考えてしまう。この人は、どうして私のわがままに付き合ってくれるんだろう。
沈黙が怖くて、マイクを握りしめたまま、喉の奥に刺さっていた言葉を吐き出した。
「先生も……やっぱり私のこと、可哀想だと思ってます?」
自嘲気味に笑って選んだのは、耳を刺すような激しいオルタナティブ・ロック。イントロが響くと同時に、私は吠えた。
「――っ!!」
それは歌なんて呼べるものじゃなかった。喉の奥にこびりついていた澱を、肺にあるすべての空気と一緒に叩きつける。ただの絶叫だ。喉が焼ける。鼓膜が自分の声で震えて痛い。けれど、この暴力的なまでの声量だけが、私を縛り付けるあらゆる記号を焼き払ってくれる気がした。
阿久津が押し付けた『車椅子の歌姫』も。笠松舞が値段をつけようとした『過去の才能』も。歌詞に込めた呪詛が、安っぽい個室の壁に跳ね返って私を包囲する。今この瞬間、私はただの不自由な少女じゃない。この世界のすべてを呪い、拒絶する、剥き出しの何かに成り果てていた。
視界の端で、先生がジョッキを傾けているのが見える。彼女は驚きも、同情も、嫌悪も見せなかった。ただ、冷淡な――けれど、どこか品定めするような熱を帯びた瞳で、私から目を離さない。
その視線に煽られるように、私はさらに深く、自分の絶望を絞り出した。
最後の音がハウリングと共に消えた時、部屋には重苦しい沈黙が降りた。私は肩で激しく息をしながら、マイクをテーブルに置く。
「……先生。今の私の歌、どうでした?」
あえて一番激しい曲を選んだ。喉が焼けるような絶叫に、今のドロドロとした感情をすべて乗せた。これを聴いて、先生はなんて言うだろう。
先生は、テーブルに置かれたビールのジョッキを掴むと、残った半分を一気に煽った。そして、指先だけでパチパチと乾いた拍手をする。
「……正直に言っていい? 私、音楽のことはさっぱりわからないの。ピッチがどうとか、リズムがどうとか、そんなの機械で補正すればいい話だしね」
心臓が冷たくなる。期待した自分が馬鹿だった。やっぱりこの人も、私の歌なんて見ていないんだ。そう思って顔を背けようとした時、先生の声のトーンが変わった。
「でも、姫乃の不満や、不安、やるせない苛立ち……そういうのは、痛いほど伝わってきた。……音楽って、非言語的なコミュニケーション・ツールだと思ってたけど、その通りね。君が今、自分の境遇を呪ってることだけは、嫌っていうほど伝わった」
驚いて顔を上げると、先生は私を真っ直ぐに見ていた。
「……先生も、私に同情するんですか。車椅子の女の子が必死に叫んでるのが、可哀想で、健気で……。結局、私の歌の価値なんて、そういう――」
「あー、なるほど」
私の言葉を遮るように、先生が吐き捨てた。空になったジョッキを、事もなげにテーブルへ置く。
「……贅沢な悩みだね」
耳を疑った。先生の顔は、ほんのりと赤らんでいる。さっきまで冷たかった瞳が、アルコールのせいか、見たこともないようなギラついた熱を帯びていた。
「境遇だけで評価がもらえるなら、私だって今すぐこの両脚を折って、研究予算の申請書にレントゲン写真を添えてやるよ。『見てください、こんなに可哀想な私に研究費をください』ってね」
――この人、今、なんて言ったの?
絶句する私を置き去りにして、先生は一歩、私の膝が触れるほどの距離まで踏み込んできた。狭い室内の、安っぽい照明が先生の顔を照らしている。
「人は皆、平等に不自由なの。私は予算に、世間の連中は『道徳心』っていう退屈な檻に。……そして君は、この車椅子と、自分への『憐れみ』に縛られてる」
「……っ」
近い。お酒の匂いと、先生の香水が混ざって鼻を突く。普段の先生なら、絶対に踏み込んでこない距離だ。
「君の歌が『同情』で買われてる?笑わせないで。君の歌をそんな安い価値に貶めてるのは、他の誰でもない、君自身でしょ」
心臓の奥を、熱いナイフで抉られた気がした。今まで誰からも、そんな風に言われたことはなかった。腫れ物に触れるような優しさや、遠巻きの憐れみばかりだった世界で、この人だけが私を「五体満足な他人」と同じ土俵に、力ずくで引き摺り下ろしてくる。
「でも、私の評価は違う。私なら君の歌に利用価値を見出せる。同情なんて安い感情じゃない。もっと……最高に暴力的な使い道を、教えてあげられる」
先生は確信に満ちた、どこか子供じみた笑みを浮かべた。
「うん……いいアイデアが浮かんだ。姫乃の歌、私に頂戴。私が君の才能の『買い手』になってあげる」
「え……?何を、言ってるんですか」
買い手。ついさっき、あのパーティ会場で耳にしたのと同じ言葉。
脳裏をよぎるのは、「マイに売ってよ」と笑った笠松舞の顔だ。あいつにとって、私の才能は自分を飾り立てるための商品。駒路姫乃という人間ごと、便利に利用しようとする取引。……少なくとも、私にはそう聞こえた。
目の前のこの人も、結局は同じなのだろうか。車椅子の私を特別視しない素振りをしながら、その実、私の歌を利用価値のある商材として計算しているだけなのだろうか。
ようやく見つけた普通の居場所だと思ったのに。裏切られたような衝撃と、一日に二度も自分の歌に値段をつけられた屈辱が、視界を白く染めていく。
けれど――先生の瞳には、世間が向ける安っぽい同情はなかった。
そこにあるのは、純粋すぎて毒にさえなる、剥き出しの飢餓感。私の歌を評価するような高尚な視線ではなく、もっと野蛮で、けれど誰よりも真っ直ぐに、私が何を叫んでいるのかを掴みにきている目だ。すべてを力ずくで暴かれたようなその感覚に、私は反論する言葉さえ見失っていた。
「……ふふっ」
先生は、私の絶句を「肯定」と受け取ったのか、あるいは最初から反論など許す気がないのか、満足げに鼻を鳴らした。
「よし、商談成立。契約の詳細は日曜日の十三時に私の研究室で。……遅れないでよ、君の歌の本当の『価値』ってのを、骨の髄まで教えてあげるから」
「ちょっと、先生! 話はまだ――」
「はい、退散」
流れるような手際で、私は車椅子ごとカラオケボックスの外へ放り出されていた。夜の空気が火照った頬に冷たい。
先生が乗り込んだタクシーが走り去る際、窓から「あー、最高……」という、柄にもなく浮かれた声が聞こえた気がした。
夜の駅前。一人残された私は、まだ熱を持ったままの喉に手を当てる。利用価値。暴力的な使い道。あの人は確かにそう言った。
……最悪だ。出会った中で、一番最低で、一番失礼で、一番――。
「……利用価値、か。絶対、高値で売ってやる」
私は、汚れが染みついた銀砂色のドレスをぎゅっと握りしめた。




