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第32話 その後の研究室で

 博覧会から、五日が経った。


 Aggressive Realityのサブスクリプション配信が始まってから、私のメール受信箱は地獄になっていた。G社、華騰科技、名前も聞いたことのないスタートアップ、大学の広報部、阿久津教授、海外メディアの取材申請——削除しても削除しても、未読の数が減らない。


 早智は「志保ちゃん、ちゃんと読んでください」と言い残して、数日間所用で来ていない。


 静寂。


 久しぶりに、本当に静かな研究室だった。


 私はコーヒーを淹れ、椅子に深く沈み込んだ。サーバーラックの唸りだけが響いている。この音が好きだ。何も要求してこない。ただ、働いているという事実が聴覚を通じて伝わる。


 スマートグラスを外して、目を閉じる。


 ——あの海が、まだ網膜に焼きついている。


 凪いだ水面。夕焼けのグラデーション。観客の顔に浮かんだ、喪失と、それから——安堵。消えたと思った魚が、戻ってきた瞬間。


 あれは、自分でも予定外の演出だった。


 なぜ消さなかったのか、と問われれば、今でも明確な答えが出ない。技術的な判断ではなかった。直感と呼ぶには少し違う。ただ——消したくなかった、という感覚だけが残っている。


 非効率な理由だ。私らしくない。


 ——コン、コン。


 ノックの音がした。


 私は目を開けた。時計を見る。午後二時過ぎ。誰が来たのか見当はついている。


「……どうぞ」


 扉が、ゆっくりと開いた。


 車椅子のホイールが、床を滑る音。


 駒路姫乃が、研究室に入ってきた。


 五日ぶりだった。博覧会の後、解散してからは連絡もしていない。私もしなかった。する理由を、うまく見つけられなかったから。


「あ……先生」


「やあ、お疲れ様」


 我ながら、間抜けな返しだと思った。


 姫乃は少しだけ躊躇うように入口で止まり、それから車椅子を漕いで定位置まで進んだ。いつもの場所。サーバーラックの斜め前。


「早智さんは?」


「今日は来てない」


「そうですか」


 また、間が空く。


 私はコーヒーカップを持ったまま、姫乃を見た。


 ——これは、あれだ。お互いに、何かを言いかけて引っ込めているやつだ。


 私は観念して、ポットに手を伸ばした。


「コーヒー、飲む?」


「……いただきます」


 使い捨てのプラスチックカップに注いで、差し出す。姫乃がそれを受け取る。両手で、少し丁寧に。最初の日も、こうだった。あの時は、ARグラスの中で金のカップに見せた。今は何も重ねていない。ただの白いプラスチックのカップ。それでも、姫乃は同じように受け取る。


 なぜかそれが、少しだけ可笑しかった。


「……このコーヒー見てると、先生と出会ってから色々あったなって思い出します」


 姫乃が、カップを両手で包んだまま言った。


「そう?」


「そうですよ。最初にここへ来た時、まさかこんなことになるとは思いませんでした」


「私もね。鍵を落としたのが運の尽きだったわ」


「まるで私が疫病神みたいな言い方ですね!」


「疫病神……否定できないわね」


「そんなわけないでしょ!それなら、カラオケボックスで暴言吐いてきた先生だって私の運命を呪った死神みたいなもんですよ」


「あれは……申し訳なく思ってる。お酒に飲まれたとはいえ、反省してる」


「いつも偉そうな先生も反省するんだって、あの時初めて知りました」


「私も人間だからね」


「でも、その後の謝り方は独特でしたよ」


「独特って……」


「言語化が過剰なだけで、中身は謝罪でしたよね。……だから、嬉しかったです」


 また間が落ちた。短い、柔らかい間だった。


「それで気が付いたらドームライブをやることになって」


「ええ」


「合宿で海にも行って――あんなに笑ったの、久しぶりでした。……歩けなくなってから、ああいう場所で遊ぼうなんて考えたこともなかったから」


「また来年も行けばいい」


「そうですね」


 サーバーラックの唸りが、少しだけ大きく聞こえた。


「博覧会のあとに言ったこと覚えてますか?」


「色々言ってたけど、どれのこと?」


「……先生、わかってますよね」


「わからないから聞いてる」


 姫乃が、少しだけ目を細めた。


「求愛行動、です」


 言いながら、姫乃の頬に色が差した。


「……覚えてる」


「それだけですか」


「あれは勉強になった」


「先生!」


「なに」


「求愛行動に答えてください」


 私はコーヒーカップを置いた。少し考えてから、口を開く。


「あなたが言った通り、歌は求愛行動の一つだというのは、新しい知見だった。これで私も少しは歌が理解できたんじゃないかと自負している」


「そうじゃなくて」


「私には音楽の良し悪しはわからなかったから、大きな進歩よ」


「先生!」


「ただ、もう一つ理解出来たことがある」


 私は、姫乃を真正面から捉えた。


「あなたの歌を聴くたびに、次は何を作ろうかと考えが止まらなくなる。それは今も変わらない」


 姫乃は目をそらして何も言わない。


「……先生って、本当にずるいですよね」


「そう?」


「そうです」


 しばらく、二人とも何も言わなかった。コーヒーがすっかり冷めていた。


 やがて姫乃が、小さく笑った。


「ねえ、先生」


「なに」


「次のライブ——海外でやってみたいんですけど」


 私は、コーヒーカップを取ろうと手を伸ばして止まった。


「ヨーロッパとか。先生のAgressive Reality、絶対すごいことになると思うんです。現地のアーティストとコラボして、野外で——」


「却下」


「やっぱり飛行機が怖いんですか?」

 

 すかさず追い打ちをかけてくる。


「先生、飛行機怖いって言ってましたもんね」


「そうよ」


「じゃあ、船は——」


「それも却下」


「なんで即答するんですか、船は怖くないでしょう」


「移動に何日もかかる。非効率」


「先生なら船上でも仕事できるじゃないですか。Wi-Fi——」


「姫乃」


 私は、椅子を半回転させて姫乃の方を向いた。


「海外に行かなくても」


 姫乃が、口を閉じた。


「あなたがまだ見たことない世界なら、私が作ってあげる」


 サーバーラックが唸っている。私のスマートグラスの中で、博覧会の夜から住み着いている青い魚が、のんびりと泳いでいる。


 姫乃は、しばらく黙ったまま私を見ていた。ただ、まっすぐに。


 私はデスクの引き出しを開けた。


 奥の方から、小さなものを取り出す。


 鍵だ。


 研究室の鍵。そこにぶら下がっているのは——黄色いラバーダックのキーホルダー。


 私のものと、同じ。それを姫乃に向かって差し出した。


 ラバーダックを見て姫乃が、固まった。


「……先生、これ」


「ええ、見覚えあるでしょ」


「同じ、ですよね。先生のと」


「そうね」


「……どうして」


 私は肩をすくめた。


「これから先もチーム・リラとして活動するなら必要だと思って」


 素っ気なく言ったつもりだった。でも自分でも、声が少しだけ低くなったのがわかった。


 姫乃は鍵を受け取った。両手で包むように。ラバーダックを親指でそっとなぞる。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして。早智の分は別に作ってあるから、あなただけ特別というわけでもないけど」


「その一言、今いりましたか?」


「事実だから」


「事実でも言わなくていいことがありますよ!」


「そう?」


「そうです」


 姫乃が、笑った。さっきまでの照れが抜けた、素のままの笑顔。


 私はスマートグラスに手を伸ばした。空白のプロジェクトファイルを開く。まだ何もない。テーマも、音楽も、演出のかけらも。


 どんな世界になるかは、まだわからない。ただ、姫乃の歌があれば形になる。それだけはわかっている。


「——それじゃあ」


 手の中でラバーダックを握りながら姫乃がまっすぐに私を見てくる。


「次は、どんな世界を一緒に作りますか?」


 私はキーボードに指を置いた。——現実の塗り替え方は、まだいくらでもある。

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