第1話 春①
2032年。スマートフォンという言葉がもはや死語となり、人類の七割がAR(拡張現実)デバイスを装着するようになった日本。
街ゆく誰もがレンズ越しに世界を覗くその光景を、誰かが 『総メガネっ娘時代』 なんて揶揄していた。 網膜に直接投影される最適化された広告、親切なナビゲーション。この変化は、私から言わせると、人類の視覚情報への極度依存の始まりだった。
国立大学の一角、古いサーバーラックが低く唸る園田研究室の中で、私、園田志保は「素顔」のまま、窓の外を眺めていた 。
ARデバイスというフィルターを通さない私の視界には、空中に浮かぶ極彩色の広告も、浮ついた案内板も映らない。そこにあるのは、春の陽光にさらされた、ひどく無機質で、ありのままの現実だけ。
「……結局のところ、ただの『高機能な老眼鏡』を配られただけで、誰もが世界を理解したつもりになってるのって、ほんと、滑稽だと思わない?」
天井を見つめる私の独り言に、トクトクとコーヒーを注ぐ音が重なる。さすがに徹夜三日目の朝となると思考もマイナスに振り切れる。
「またそんな難しい顔して……。はい、志保ちゃん。コーヒーですよ」
高知早智。大学二年生。なぜか私の研究室に入り浸っている学生が、慣れた手つきでマグカップを差し出してきた。彼女は最新型のスマートグラスをカチューシャのように頭に乗せ、屈託のない笑顔を向けてくる。
「早智、言ったはずよ。学内では准教授って呼びなさいって」
「えへへ、すいません。でも志保ちゃんって呼ぶ方がしっくりくるんですよ。あ、これ、この前発売されたばかりの『L-Gear』のフラッグシップ機です。試します?」
差し出されたスマートグラスを受け取る。別にARデバイスそのものが嫌いなわけではない。仕事柄、構造を理解するために触れることは日常茶飯事だ。フレームの剛性と投影ユニットの配置を指先でなぞり、電源を入れる。視界に浮かぶセットアップ画面を一瞥し、二、三度スワイプして階層を潜った。
「……相変わらずね。描画のレンダリングはマシになったけど、インターフェースの発想が乏しい。結局、おもちゃの域止まりね」
私はすぐにデバイスをオフにすると、早智にそれを返した。
「お気に召しませんでした?」
「道具としては退屈かな。仕事で嫌ってほど拡張現実を見つめているのに、プライベートでまで、こんな低解像度の現実を直視するとかゴメンだわ」
早智は苦笑いしながらデバイスを回収する。私が仕事以外で頑なに「素顔」を通すのは、この退屈なAR社会に対する私なりの意地のようなものだ。
「ま、その不便なこだわりが志保ちゃんらしいですけど。……あ、そうだ。そんなことより大ニュースですよ。今年の新入生に、あの『車椅子の歌姫』がいるらしいんです」
「新入生? 興味ないわ。……それに、何その肩書き」
「知らないんですか?数年前に社会現象になったシンガーですよ。車椅子に乗った女の子なんですけど、歌唱力がとんでもなくて。人気絶頂で活動休止しちゃったんです。ほら、見てください」
早智がスマートグラスを私の顔にかけてくる。視界に映し出されたのは、ライブ映像だった。
車椅子に座った少女。そこから放たれる歌声は、透明感がありながら、今にも砕け散りそうな危うさを秘めていた。
映像の中盤、曲が最高潮に達した瞬間。少女の膝が不自然に跳ねた。重心を失った車椅子が横倒しに崩れる。ステージに投げ出される身体。悲鳴に包まれる会場。
けれど、床に転がったまま、少女は歌い続けていた。乱れた呼吸で、喉を震わせて。
私はその瞳を見た。科学者が一番信用してはいけない直感が、何かを訴えている。
笑っている。笑っているはずなのに、笑っていない。歌っているのに、歌っていない。
「……」
私はデバイスを外し、窓の外へ視線を戻した。
「悪いけど、私、歌ってわからないんだよね」
「えー! もったいないなあ。ビジュよし、声よしで当時は私も推してたんですよ!ほら、色々おすすめ教えましょうか?これとか――」
コーヒーを一口すする。早口になった早智を聞き流しながら、苦味を舌の上で転がした。
音楽はわからない。でも、あの目だけは、頭から消えなかった。




