第五章 偽りの記憶
いつもの、香りがする。
穏やかな鳥の声、緩やかな陽の光が部屋の中まで漏れる。安心できるその場所が何処なのか彼は直感していた。ゆっくりと身を起こせば、やはり見慣れた部屋にほっと息をついた。彼、悠真はそのままパジャマを脱ぎ、着慣れたシャツに身を包む。
部屋から出れば味噌汁の匂いが鼻をくすぐる。とたんに空腹を訴える自分の身体に苦笑した。階段を下りているとリビングから賑やかな声が響く。日常茶飯事なので気にすることはない。
「母さん、俺にもご飯」
「あら、悠ちゃん。先におはようでしょう?」
「あぁ、おはよう。今日は何?」
「焦げた鮭だよ、ユーマ兄ちゃん」
「まだマシな方だろ、これは」
「そうだな、結婚した時はもっと、色が」
「もう、文句あるなら食べなくていいわよ!」
想像通りの賑やかさに微笑んで、椅子に座る。確かに所々焦げがある鮭を摘みながら時間を確認すればいつもより二十分は余裕だ。ゆっくりと食事を味わいながら、何か忘れているような感覚に陥る。
「どうしたの、そんなに鮭が不味かった?」
「まさか、久しぶりに外はカリカリで中は生焼けとか?」
「いや、何か今日、長い夢を見ていた気がするんだけどさ、内容忘れちゃってさ」
思い出さなきゃいけないくらい、大事な内容だったような、と心の中で付け足して悠真は箸を加えたまま唸る。けれど、一度忘れてしまった夢はなかなか思い出すことは出来ない。夢は夢か、といつしか諦めて、口直しに味噌汁を一気飲みして家を後にした。
綺麗な白い雲が程よく散らばる爽快な天気だった。弁当しか入っていない軽い鞄を肩にかけた状態で、悠真は普通の人よりも早めに歩く。久しぶりに身体が軽かった。このまま走り出してもいいくらいだ。
「おはようございます!」
ふと、聞き慣れた声に振り向いた。同じ制服を着た同じくらいの身長の男子に、悠真は彼と同じ位無邪気に笑んで、挨拶を交わす。
「はよ、原松」
学校で誰よりも気が合う後輩だった。ふと、考えてみれば同じクラスの男子よりも仲良くしているかもしれない。バスケ部の助っ人等でよく顔を合わせるのもそうだが、会話のノリがおそらく悠真と恐ろしく似ているからだろう。
「はぁ、そろそろ学校がだるくなってきました」
「それ結構遅くないか?普通一年の後半くらいから思うだろ」
「俺結構優等生ですから!」
「はは、自分で言うなよ!」
他愛無い会話を繰り返し、あっという間に学校に到着する。上履きに履き替え、教室に向かっていると、ふと芳季は不思議そうに悠真を見やる。
「先輩、どうして二年の教室の方に行くんですか?」
「は?何言ってんだよ。俺二年だろ」
「な、何寝ぼけてるんですか!先輩は俺のいっこ上っすから、三年じゃないっすか!」
瞬間、彼の思考は停止する。確かに芳季はもう二年で、悠真はその一つ上の学年にいるはずだった。だけど、確かに彼と同じクラスだったはず。悠真にはその記憶がちゃんと残っていた。
だけど、何故もう一度二年をやらなければならなくなったのか、肝心のその部分の記憶がない。しかも、芳季自身はその事を覚えていない。
どうしてだ?
何で、俺……二年だと思ったんだろう?
何かが彼の頭の中で引っかかっている。だけど、それは解けることはなく、気持ち悪さは増すばかりだ。違和感を覚えながら、言われたクラスへ赴き、慣れない教室で、慣れない授業を受けて、ただ一日が終わるのをじっと待つ。
何で、見知った顔が教室にいることが変に思えるんだろう。
ずっと続く違和感。何かを忘れてる。何かが足りない。一体それが何なのか、彼にはわからなかった。ただ、ただこの日常が自分が知るものではないことを、いつしか確信していた。
茜色の空が悠真の顔も朱に染める。目を細めその空を見つめて、ゆっくりと帰路を歩く。慣れた道、同じ制服を着た生徒が同じ方向に歩いていく。そこには今日同じクラスだった男子生徒もいた。彼は悠真の姿を見つけ思わず話しかけた。
「あ、悠真!そろそろあの時期だな!」
「へ?何?」
「何言ってんだよ!十月といったらハロウィンだろ!お前今年は何やるんだろうなぁ」
一瞬、何かが頭の中をかすめる。しかし、それははっきりとしたものを映さずに消えた。何も言わない悠真を気にすることなく、友人は勝手に話を進める。
「三年が受験を忘れて楽しめる最後のパーティだしな!本当、柳会長様様だよな!」
──────
「柳………龍一?」
「あ、あぁそうだぜ。大丈夫か?今日ずっとぼーっとしてんけど」
「あ、あぁ。わりぃ、ちょっと調子悪くてさ!先帰るな!」
逃げるように友人から離れて、そして止まる。確かにおかしい。朝から何かがおかしい。それは悠真自身がおかしいのか、それとも…。
彼は暗くなりかけた空から視線を外して、冷たいコンクリートを見つめた。
「………?あれ、ここに街灯なかったっけ?」
一つだけ、間隔を無視した一つの外国製の街灯。はっきりとした記憶。だけど、それはすぐに違うと気づいた。そんな街灯は元からそこにはなかった。だけど、一回だけ、本当にその時だけ、彼には見えたのだ。そんなありえない街灯が。
そう、彼にはあったはず。普通なら起こりえない現象が、出来事が、それらの記憶を持っていたはず。
「そうだ、そうだよ!」
ずっと引っかかっていたもの。おかしくて当たり前なのだ。この平凡で、普通の生活が、普通の記憶が、彼にとったらおかしいことなのだ。
「こんな、まるで世界がここだけのような記憶…。こんな日常。全部が───おかしかったんだ!」
ピシ
何かが、ひび割れる。悠真は強く目をつぶって記憶とは違うこの世界を否定するように、視界を暗くした。
「違う!ここは…これは俺が知る世界じゃないんだ!全部、全部なかったことなんて出来ない!」
ピシ
ビキ──
世界が途端に弾けた。見知った風景はガラガラと崩れて、いつしかその場所は黄土色の土で作られた洞窟へと姿を変えた。暗いはずのその空間は、黒く、けれど白い光に明るく照らされている。
映像の変わりようによってか、貧血と同じような眩暈に襲われて膝をついた。じっとりと額には汗が滲み、あの日常を送ることに体力を消耗していたことにやっと気付く。
「───っ、皆!」
辺りを見回せば紫、伯凰、鵺が全員横たわっていた。顔色を見る限り悠真ほどの疲労は見えない。力の入らない足を懸命に動かして、彼は立ち上がる。先ほどから挑発するかのように明暗を繰り返す魔界側の門に、一歩、二歩と近寄った。
ありえない日常。本当ならあの日常を送っていたはずの記憶。それを彼に見せていたのはおそらくあの門。そして、四人がここに入った目的もその門。
「どういうつもりか、知らないけど。もう、やめろよな」
もう、体力はなく。何をすればいいのか、わからない。だけど、彼は距離を少しずつ縮めていく。ぐらぐらと揺れる視界の中、その門だけを見つめて。
「もう、嫌なんだよ。誰かが苦しむの見るの」
いつしか彼は手を伸ばせば触れるほど近くに寄って、だらんと肩を落とした状態で静止した。すると、門は一定の明るさに光を調節し、悠真を受け入れる。苦笑して、深く息を吐いた。
「お前も、苦しかったんだろ?なら、もう……休んでいいから」
そうだ、苦しかったんだ。
だから、俺をこの世界に呼んだ。柳龍一と同じように。
何よりも純粋で、何よりも欲望が深い人に、助けを求めたんだ。
「最初から、おかしかったんだ。俺がここにいるのも、俺が…皆に会えたのも」
震える声。震える肩。全てが狂っていた。人が死した者達の世界の訪れること。人が何度も来ること。全てが世界の歪みの始まりで、警告だった。悠真がこの世界に来たことは、これから始まる崩落の証。
「伯凰さんはわかっていたんだ。全部…」
強く瞼を閉じる。暗闇の中で浮かぶのは、魔界に来てからの日々。記憶となってしまう、もの。全てをしまいこみ、目を開ける。覚悟を決めたその瞳は少しだけ涙で濡れる。
ゆっくりと門に触れる。共鳴するかのように光を強くした門に微笑んで、優しく呟いた。
「大丈夫、君は役目を終えるんじゃないよ。一回、休むだけ。君と同じ魔力の波動を持った人はちゃんとこの世界にいるから。ちゃんと君の事理解して、君のためにここに俺を連れてきた。そして、この世界をまとめる、最強の魔王。だから、一回、繋がりを閉じて、休もう?」
涙が零れる。その雫が地面に落ちた瞬間、門は大きく開いた。眩いほどの光を放ち、彼を招き入れる。ゆっくりと頷いて歩を進めた。呑み込まれる瞬間振り返れば未だに起き上がらない三人が視界に入る。
「………俺さ、ここに呼んでもらえて嬉しかったよ。ありがとう。俺に、想い出をくれて、ありがとう」
さようなら
空が白く照らされる。暗闇だった世界は光を得て、朝を迎えた。まるで何事もなかったかのように一日が始まる。
だけど、彼は確かにそこにいた。その事が起きなければいないはずの、樹海に。朝が来てもその場所から動くことはなく、胸に残った痛みはいつまでも消えることはなく、ただその場所に立ち続けた。静かに流れる涙を拭くことも忘れて、あの場所では見れなかった青空から目を逸らして、ずっと…。
世界に起きていた異常現象は確かに消えて、いつも通りの日常に戻った。
世界を救ったはずの、彼の心に傷を残して───。
一話ほど設定とは長さが変わりました。
次で最終回となります。更新は、いつになることやら(汗)
最後までお付き合いして頂けるとと嬉しいです!