第35話 お客さんが来ません
小料理屋「宵日和」を開いて、1週間が経った。
「……来ない」
日和はカウンターに頬杖をついた。
目の前には、誰も座っていない椅子。
その向こうにも、誰も座っていない椅子。
テーブル席も、もちろん空いている。
開店初日。
客は来なかった。
2日目も来なかった。
3日目に、ようやく一人が店の前で足を止めた。
期待したのも束の間、去っていってしまった。
「入ってくれてもよかったのに」
思わず呟いた。
それから今日まで、状況は大して変わっていない。
たまに店の前で足を止める人はいる。
けれど、聞き慣れない名前の小さな店。
しかも、店主はこの町では見慣れない女だ。
わざわざ入ってみようと思う人は、そう多くないらしい。
「店を開けたら、お客さんが来ると思ってたなあ」
甘かった。
料理ができることと、店を繁盛させられることは全く別の話だった。
仕入れた食材を眺めながら、日和はため息をつく。
幸い、仕入れの量はかなり抑えている。
余ったものは自分で食べればいい。
とはいえ
「毎日自分の料理ばっかり食べるのもなあ」
おいしくないわけではない。
ただ、虚しい。
その日は結局、客が来ないまま店を閉めた。
翌朝。
足りなくなった食材を買うため、日和は市場へ向かった。
客は来なくても、自分は食べる。
生活とはそういうものである。
「今日は卵だけにしようかな」
必要なものを考えながら歩いていると、前方から見覚えのある少女が歩いてきた。
「あれ?」
向こうも日和に気づいたらしい。
「あ!」
少女の顔が明るくなる。
「日和さん!」
「リリィちゃん」
以前、エリアスと一緒に入った食堂で働いていた少女だ。
確か、店主の娘だったはずだ。
「久しぶりです!」
「久しぶり。買い物?」
「はい。……まあ」
元気よく答えたわりに、最後だけ歯切れが悪い。
日和は首を傾げた。
「どうしたの?」
「何がですか?」
「なんか元気ないから」
「……分かります?」
「分かるよ」
リリィは少し黙ったあと、大きく息を吐いた。
「お父さんと喧嘩したんです」
「喧嘩?」
「もう、ほんっとに頑固なんですよ!」
急に勢いが戻った。
「私だって店のこと考えて言ってるのに、全然聞いてくれなくて!」
「うん」
「昔からこうだったとか、うちの店はこれでいいとか、そればっかり!」
「うんうん」
「それで私も腹が立って、だったら勝手にすればって言って出てきちゃって」
なるほど。
買い物というより、家出に近かったらしい。
「朝ごはんは?」
日和が聞くと、リリィが止まった。
「……食べてません」
「お昼は?」
「まだです」
「じゃあ、まず何か食べよっか」
「え?」
「お腹が空いてると、ろくなこと考えないから」
リリィが目を瞬く。
日和は市場の先を指さした。
「私、この近くで店を始めたの」
「えっ!」
今度は大きな声だった。
「お店!?」
「うん。小さいけど」
「聞いてないです!」
「言ってないからね」
「なんで教えてくれなかったんですか!」
「まだお客さんも全然来ないし」
「行きます!」
即答だった。
日和は思わず笑う。
「じゃあ、おいで」
「はい!」
「何か食べながら、ゆっくり話そう」
リリィは少しだけ迷ってから、頷いた。
「……いいんですか?」
「もちろん」
日和は歩き出す。
その隣に、リリィが並んだ。
さて。
何を食べさせよう。
父親と喧嘩して、朝から何も食べていない17歳。
それなら。
まずは、お腹をいっぱいにしてからだ。




