潜む黒の気配
カランカラン
宿屋の鐘が鳴る。
「ようこそ。あら、旅人かい?」
ルクノウは、立ち寄った宿屋で店主と思しき女性に声をかけられる。
「はい、そうです。数日泊まらせて頂こうかと」
「それじゃあ、宿は二階の空いている部屋を使いな。木札を見たらわかるから」
「ありがとうございます」
「それと、皿洗いでもいいかい?」
「はい?」
「今はあいにく食糧庫も潤沢で狩は必要なくてね。裏にある畑の収穫も時期じゃないし、溝掃除はこの間したばかりで、丁度良いものがなくて申し訳ないね」
「え……」
突然、仕事をあてがわれてルクノウは困惑する。
「どうしたんだい? ポカンとして。うちはそういう奴らがよく来るんだが……もしやアンタは違ったかい?」
「いえ、せっかくなので何かお手伝いさせてください」
「そうかい? それじゃあお願いしようかね。その分のお駄賃はしっかりと払わせてもらうからさ、もちろん賄いもね」
宿へ荷物を置いて、女将に連れられて、宿の食堂へと向かう。
「お、坊主、新入りか?」
入店するなり、常連の男に声をかけられる。
「いえ、旅人としてお手伝いを」
「そうかそうか。女将、いつものをもらおうか」
「いつものって、果実油でしょ? お酒も飲めないのに頼み方だけ一丁前で」
果実油は果実から精製された飲み物で、酒と混ぜれば果実酒になる。
「それでよ、さっきの続きなんだが、領主様の調子があまりよろしくないみたいでな」
旅人が物珍しいわけでもなく、いつもの通り、常連同士で会話を続けていた。
「なんでも見慣れない姿のやつが出入りしているって噂だろ?」
「ああ、跡取りには長男がいるからこの街の心配はいらないと思うが」
「確かに。優秀だって聞くしな」
「でもよ……」
「おいおい、あまり滅多なことを口にするんじゃないぞ。不敬罪になりかねん」
「……それもそうだな」
男は店の中の一席へと視線を向けて口ごもる。
そこには、甲冑を身につけた兵士がいた。
ルクノウが検問の際に見た兵士と同じ紋章を掲げていることから、この街の門兵より高位の近衛兵だろうかと推察する。
「長男がどこまで継ぐか見ものだな」
「ああ、伯爵領とのこともあるしな」
一際汚れた身なりをしている別の二人組が、ヒソヒソと話している。
「何が行われているのかわかったもんじゃないが」
「墓荒らしをしていたなんて話もある」
「そこまでして金が欲しいかね」
「今回のことも、どうせ、私利私欲にまみれたバチが当たったんだ」
「おい、そこの農奴」
先ほどの兵の一人が、ヒソヒソ話していた二人の前に立つ。
女騎士だが、ルクノウよりも二回りほど大きな体躯で、鋭い眼光を向ける。
「ひいっ。違うんです。これは言葉のあやと言いますか……」
一人は弁明に勤しみ、一人は震えながら俯くだけだった。
「先ほどの言葉、領主様への不敬と捉えてよいな?」
そう言いながら、腰の柄に手をかける。
「やめろ。そこまでだ」
沈黙を貫いていた男が、椅子に腰をかけたままで制止する。
こちらも一目見ただけで格の違いがひしひしと伝わってくる。
「ですが、酒の席とはいえ……」
「お前の清き正しい剣をこのようなことに使うでない。その方らも、多少のことには目を瞑るが、一線を超えることのないようにな」
二人の兵士は店主へ一瞥して、店を後にしようとする。
店主へ支払う際にも、二人は少しだけ会話を続けていた。
「なぜ真実をお話にならないのですか」
「話したところであらぬ疑いを生み、争いの火種を増やすだけだ」
「では黒い噂とやらを払拭するだけでも!」
「よせ。このような場で話すようなことではない。では、失礼したな」
「いえ、またお待ちしております」
女将も騎士に物応じせず、他の客と同様に対応する。
慣れているのであろう。
ルクノウはというと、一連の騒動を横目に、皿を洗って拭くということを繰り返していた。
「お疲れさん。空いているところに座っておくれ」
「ああ、ありがとう。いつものを頼むよ」
また常連だろうか、今度は門兵が入店してきた。
「どうにも国境付近の様子がおかしい」
「ああ。昨晩もアレの群れが出たらしい」
「こうも続くと討伐隊も厳しいな」
「そろそろ俺たちも駆り出されるぞ」
「それまでに原因がわかればいいが」
「それができれば噂なんて流れないさ」
「まあ眉唾物だがな」
皿を洗うルクノウの元に、女将が客から下げてきたものを持ってくる。
「最近この辺りで良くない噂が流れていてね、その話で持ちきりさ」
「それでみなさん同じようなことを」
「旅人のあんたにはよくわからないだろうが、ここを出る時は気をつけた方がいい。なんでも群れは人影に見えたっていう噂さ」
「人影……」
しばらくすると、“黒い噂”について話すものは誰もいなくなっていた。
どうやら代替わりの際に真実の公表へ踏み出したらしく、墓荒らしは見間違いだったようだ。
噂話とは飽きが早いものである。
そういうものとして、人々はまた日常へと戻る。
今、食堂は稀代の吟遊詩人で持ちきりだった。
「お世話になりました」
「あんたみたいに丁寧な旅人は初めてだよ。また寄っとくれ」
あれから数日が経ち、ルクノウはまた新たな地へと向かう。
門を潜ったその背中を、ある黒い影が視界に収めていた。
しかし、その影はルクノウに興味を示すこともなく、その場を去る。
黒い影は、どこか揺らいでいるようにも見えた。
骸のような黒い影を孕んで。




