022
「んふ。んふふふ」
レオンは朝からずっと、顔がニヤけてたまらなかった。元に戻そうとしても自然と口角が上がってしまう。
彼はあの迷宮での事件以来、大事をとってずっと自室で寝かされていた。見慣れた天井をひたすら眺めるだけの、つまらない、退屈な日々だった。
ところが今日、セレス(彼女の傷も中々に深かった)がようやく見舞いに来てくれると聞いたのだ。頬が緩むのも仕方なかった。
もちろん冷静(本人談)になった今なら分かる。あれはミーシャが勝手に言っただけだと。二人の関係で“舌”はまだ早すぎると。
だがキスは、少なくともキスは間違いなくセレスティア・ベルモンド本人の口から出たものである。
そして彼女は、一旦交わした約束を反故にするような人間ではない。
それすなわち---イシュタリア帝国第8代皇帝カール・ティハーンの長子、レオンハルト・ティハーンの勝利は確定しているのだった。
「んふ。んふふふ」
レオンがまた一人で含み笑いを漏らしたころ、コツコツと自室の扉がノックされる。
彼の全身が、ピクンと震えた。
「ほ、ほうぞ・・・」
緊張のあまり、出迎える声が噛んだ挙句に擦れてしまっていた。
ええい、己はこの日のために修行を積んできたのではないかと、レオンは自身を叱咤する。
ベッドから立ち上がり、髪と衣服の乱れを整える。
そして彼が、もう一度、頬を叩いて気合を入れたころ、もう一度扉がノックされた。
「どうぞ」
「殿下、失礼いたします」
扉を開けて入って来たのは、彼の期待に違わずセレスだった。
漆黒の髪が映える整った顔立ちは、静かな凛々しさを湛え、黒曜石の瞳には揺るぎない意志と貴族としての誇りが宿っている。若さにそぐわぬ沈着な雰囲気には、鍛えぬいた鋼を思わせる剛さと冷たさがある。
思わず見とれてしまいそうな、いつもどおりのセレスであった。
「殿下、お加減いかがでしょうか。この度は私の力不足で、本当に申し訳ございませんでした」
セレスはレオンのベッドのそばに来るなり、深々と頭を下げる。
「ちょっと!どうしてセレスが謝るのさ!」
甘い展開しか予想いなかったレオンが慌てて、セレスを押しとどめた。
「父上が何か言ったの?護衛失格だとかなんとか」
「いえ・・・陛下は、“どうせアイツが弱っちいくせに恰好をつけたがったんだろう?ならアイツが悪い!”と仰っておられました」
「あ、そう・・・ならいんだけどね」
レオンはとりあえずセレスが護衛から外されることはないと知って、ホッとする。
彼にとって父親からの扱いは、いつもそんなものであり、いまさら落ち込むに値しない。
「それで、セレスの方の怪我はどう?僕の方こそゴメンね、守ってもらっちゃって」
「いえ、それが私の仕事ですから・・・お陰様でほとんど痛みも取れまして、動きに全く支障はございません」
「へぇ、それは良かった」
レオンはセレスの快復を心から喜んだ。ミーシャから、重いものではないと聞いていたものの、寝ている間の心配事の一つだった。
「と、ところでその・・・約束のことなんだけど・・・」
「はあ、約束ですか?なんのことでしょう?」
緊張しながらも切り出すレオンに対し、セレスは心当たりがないと首を傾げる。
「いや、そのほら・・・あの迷宮で戦ってるときにセレスが言ったじゃない。勝ったらキスしてくれるって・・・」
照れくさくなったレオンが、近くのテーブルに人差し指でくねくねと“の”の字を書いた。
一方、セレスの表情は冷静なままであり、いつもと変わらなかった。
「そのことでしたら、殿下。もう済ませたじゃありませんか」
「はへ?」
レオンの顔に大きな“?(はてな)”マークが、浮かんだ。
「え?・・・いつの話?」
「迷宮での戦闘直後です。ボロボロになった殿下に、回復薬を口移しで飲ませて差し上げました」
「いや僕、その時気絶してたでしょ!覚えてる訳ないじゃない!」
「そう言われましても・・・別に殿下が起きている時にすると約束したわけではありませんし・・・」
「そんなぁ・・・」
全ての希望を断たれたレオンががっくりと首を折り、死人のようにぼーっとして、ただ地面を見つめていた。目の端には小さく光る粒が溢れている。
(はぁ・・・まったく・・・)
そんなレオンの様子を見て、セレスは胸の中で大きくため息をついた。
絶望的な状況から、たかが自分との“キス”を約束されたぐらいで立ち直り、まさに獅子の名に相応しい奮迅の活躍をしてみせた。そして今はその約束が自分の知らないうちに済まされてしまった事を、身も世もないほどに落ち込んでいる。
セレスには彼が一体何を考えているのかさっぱり分からなかった。レオンは皇太子であり、顔立ちも整っている。性格だって、そう悪くはない---と思う。その気になれば、言葉通りの意味で選り取り見取りの身分だった。
自分のように杓子定規で、可愛げも面白味もない人間との口づけに、こんなに大騒ぎする必要があるとは思えなかった。
(仕方ありませんね)
ただ、彼女にとって一つ意外だったのは、今はそう悪い気分ではない。むしろ戸惑いながらも、何か心が浮きたつようなフワフワしたものを感じている。こんな感情は生まれて初めてだった。
(このままでは殿下の教育に差し支えますから---)
自分の中でそう理由を付けて、セレスは落ち込むレオンの正面に立った。
「殿下っ!」
「はいっ!」
セレスに一喝され、レオンが反射的にピンと背筋を伸ばして前を向く。完全に躾けられた動きだった。
「・・・?」
続いてお説教が始まるのかと思ったのだが、セレスの黒い瞳はただじっとレオンの顔を見つめているだけだった。
「あの・・・どうしたの?」
「黙っていてください」
少しずつ、本当に少しずつ、セレスの顔が近づいてくる。
しかしその表情はまるで、難解な哲学書を解読するような渋面であり、甘いものなど欠片もない。レオンは何がしたいのかわからず、困惑してしまった。
とはいえあと数秒、ほんの数秒の時あれば、セレスが何をしようとしているか、彼は理解しただろう。そして、彼らの関係に大きな転機が訪れたに違いない。
だが---
「皇子様ッ!着替え持ってきたヨ!」
バンッと勢いよく扉が開いてしまった。
三角耳の獣人の少女が、皇子の服を一杯に抱えて戸口に立っている。両手がふさがっており、ノックできなかったらしい。
すかさずセレスは飛び下がっていた。武芸者らしい、実に機敏な動きであった。
「ありがとう、ミーシャ」
笑顔で礼を言うレオン。
彼は今、巨大魚を釣り逃したことに気づいていなかった。それはある意味では、幸せだったのかもしれない。気づいていれば、怪我よりも長くベッドで寝込むことになっただろうから。
「箪笥にしまっておくネ」
そう言ったミーシャが、尻尾をフリフリ、部屋の奥に設えられている洋服箪笥に向かっていった。金で装飾された引き出しを開け、丁寧な手つきでしまっていく。レオンが自室で療養している間、彼の身の回りの世話はミーシャがずっと面倒見ていた。
「えー、コホン。ところで、殿下。ご報告があるのですが・・・」
セレスは無理矢理に気持ちを落ち着かせ、レオンに話しかける。さすがのポーカーフェイスであった。
「ん、なに?」
「実は・・・私、戦いの後あのスライムの一部を小瓶に入れて持ち帰っておりまして・・・」
「ああ、ベッドで寝てる間にミーシャから聞いたよ。アイツ、それで生きてたんだろ?タフだよねぇ」
「はい。そこまでは良かったのですが・・・申し訳ございません、その小瓶が何者かに盗まれました 。憲兵隊に預けていたのですが・・・」
「・・・へぇ」
有り得べからざる失態。だが、レオンはいかにも楽しそうに片頬を吊り上げてみせた。
「アイツ、ノアだっけ?確か、ダンジョンの復活と魔法生物の実験、後は・・・雇い主が居るみたいな事も言ってたよね?」
「はい。確かにそう言っておりました」
「 つまり――まだ、舞台裏に“誰か”がいる、と」
「そういうことになります」
「これから忙しくなるねぇ」
レオンの表情はあくまでも優しく、春の野風に吹かれているよう。だが、透き通る蒼石の瞳には、しっかりとした決意が宿っていた。
「ああ、それと殿下・・・昨日、殿下に連れて行っていただいた酒場に、マチルダと行ったのですが」
「マチルダって・・・ああ、あのセレスの後輩の」
「ええ。マチルダも随分と気に入ったようで、喜んでおりました」
「・・・彼女は、どこでも喜ぶんじゃないのかなぁ。別にいいけど」
レオンは自分の命を本気で狙ってきた、赤髪の大剣使いを思い浮かべた。
彼女はセレスのことが大好きであり、一緒に行けるのならば、地獄でも喜びそうだと思った。
「それで、酒場の店主から殿下に伝言を頼まれていまして」
「伝言・・・?あっ!」
首を傾げた瞬間、レオンは心当たりを思い出し、さあっと顔から血の気が引いていった。
「“ツケの支払い、楽しみに待ってるわ”とのことでした。殿下、そんなにツケを溜めていらっしゃるんですか?」
「溜めているっていうか、溜めこんでいるのは向こうの方で---」
体の奥底から悪寒が沸き上がり、全身の汗腺から汗が滝のように吹き出している。お尻の穴がキュッと締まった。
「ね、ねぇ、セレス。今回の事件を解決したのって、僕の手柄じゃない?憲兵隊とか騎士団から、金一封って出たりしないかな?」
「はぁ?!急に何を・・・。そんなものありませんよ」
「そこをなんとかならない?ね、お願い!」
レオンがセレスに向かって手を合わせる。彼は必死であった。
「ダメです。そもそも皇太子である殿下が、この国のために働くのは当然でしょう」
「わかった!なら辞める!今日かぎり、皇太子辞めるから!」
レオンのあまりにもな発言に、驚いた顔で目を見張るセレス。みるみるうちに顔が赤く染まり、一気に爆発した。
「殿下っ!!!よくもまあ、軽々しくそのようなことを口に---」
「仕方ないんだよぉ・・・」
ガミガミとお説教モードに入ったセレスと、塩のかかった青菜のように首を垂れるレオン。
(やれやレ、この二人、まだ時間がかかりそウ・・・)
着替えを洋服ダンスにしまい終わったミーシャは、尻尾を左右に振りながらそう思った。




