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第8部分について 坂内萬輔と北畠具房

ウィキペディアの三瀬の変を読むと、「坂内具房」という名が出てきます。田丸城で暗殺された坂内兵庫頭のお父さんです。勢州軍記では「坂内萬輔」「坂内大御所刑部大輔入道萬輔」と記されています。

ウィキペディアでは「坂内具房」と記していますが、この人の名は「具房」ではなく「具信」だと思うのです……。


私の個人ブログ(現在休止中)でもチラッと書いたことがある内容も含んでいます。

「萬輔」とは坂内具信の入道後の名前だと斉藤拙堂は『伊勢国司記略』で述べています。※斉藤拙堂は江戸時代の学者


そして、「具信」と「具房」については次のように記しています。




斉藤拙堂『伊勢国司記略』


「按ずるに法名帳に従四位下左中将右近将監具房、天正四年十一月二十五日於坂内討死、圓徳院通山満浦居士とあり。官位法号ともに具信の事となるべきに具房とあり。具房は具祐の元の名にて此人は参議に任じ、元亀の頃逝去し給へること、前にしるしたるが如し。具此頃の国司大腹御所の名具房なるに、一家に同名付りいはれなし。思ふに満浦の名具信なるをしらざるまゝ推量して填めたることはしられたり。」




ざっくり訳すと


「法名帳に従四位下左中将右近将監具房、天正四年十一月二十五日於坂内討死、圓徳院通山満浦居士、て書いてあるけど、具房ていうのは間違えてるよ。この官位や法号は具信のものだよ。具信の先代具祐が具房と名乗っていた時期がある。この具祐は参議にまでなった人で元亀の頃に亡くなってるんだよね。具信の時代(天正)の国司は、大腹御所っていうニックネームの具房って人だよ。同じ時代に北畠一族で同じ名前名乗るのおかしいでしょ? 

法名帳を書いた人は満浦の名前が具信だってこと知らずに具房って書いちゃったんじゃないかな?」



名前がみんな似ていてヤヤコシイですね。どんだけ「具」て字を使うんだよ……



えっと、簡単にいうと、坂内萬輔(具信)の名が坂内御所の先代具祐の別名「具房」と間違えられて、大腹御所「具房」の名前とごっちゃになってますよー!


ということを斉藤拙堂先生は指摘しています。


Wikipediaにある大腹御所具房の官位、「右近大夫将監」も法名帳に記されている具信のものと混同してるんじゃないかなー?と思います。



なぜ、坂内萬輔と大腹御所具房がごっちゃになってしまったか?


大腹御所は一時期(永禄の織田との講和後)、坂内城に居たらしいのです(谷口克広氏『織田信長家臣人名辞典』より)。

それで「坂内御所」と混同されてしまったのではないかな?と思います。


幕末に編纂された『系図纂要』を見ると、坂内氏の系図の萬輔にあたるところにも


「具信 又具房 (中略) 天正四年十一ノ廿四生害 円徳院通山入道万浦」


とあります。


現在もネットで見てみると、萬輔(具信)の別名が具房だとする情報も見かけますね。


ウィキペディアも萬輔と大腹御所のことを混同しているのではないか? 



と私は思ったわけです。



北畠具房(大腹御所)のウィキペディアを見ると戒名が「圓徳院通山満浦居士」となっています。坂内具信(萬輔)の法号ですよね。

 



それを見た私は「はは~ん、ウィキペディアの誤り見つけちゃったぜ」


なんて少し優越感にひたったのですが……


「浄眼寺所蔵系図」を見ると、北畠具房のところに


「左中将元具房

円徳院殿通山万浦大居士」


という文字がありました!


えー! どういうこと?  二人とも同じ戒名なの?


法名帳(北畠御所討死法名)か、浄眼寺系図のどちらかが誤って伝えているのでしょう。


浄眼寺系図の「円徳院殿通山万浦大居士」という文字にはなぜか朱線がひかれているそうです。


私は後世(江戸時代)の人が付け足した部分だから朱線をひいておいたのかな? なんて思うのですが……。

後世の人が法名帳(北畠御所討死法名)を見て勘違いして系図に付け足したんじゃないかな?、と。


今となっては本当のところはわかりませんね。




でも、ウィキペディアの編集者様、ごめんなさい。


大腹御所(具房)の戒名が円徳院殿通山万浦大居士だという記述は浄眼寺系図という根拠があったのですね。




(参考 三重県史資料叢書4 北畠氏関係資料ー記録編ー)



※浄眼寺は北畠ゆかりの寺です。

次回は「大腹御所の事」。

ゆるくテキトーに、というコンセプトを取り戻したいと思います。


★追記★

大西源一氏の『北畠氏の研究』にある北畠氏年譜によると(p285)

「天正八年 正月五日 具房卒ス、年三十四、松壑林公ト謚シ、京都蘆山寺ニ葬リ、高照院ト称ス、」(以下略)

とありました。これは北畠の名を継いだ中院親顕の法号と混同して伝わったものだと思います。廬山寺は中院家の菩提寺であり、親顕の法号は高照院なのです。


★★さらに追記★★

法名帳の「具房」について、赤坂恒明氏「天正四年の『堂上次第』について─特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に─」で考察されています。

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