表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/69

第7部分について 大河内御所って誰のこと?

魔法を行う兵法の達人・大河内御所とは何者なのか?

勢州軍記では単に「大河内御所」「大河内家」と記されており、その人物が「大河内具良」なのか「大河内教通」なのかわかりません。


ネットで検索してみるとサイトによって「具良」だったり「教通」だったり。

一体、どっちなの?

谷口克広氏の『織田信長家臣人名辞典』によると


大河内具良おかわち ともよし伊勢

?~天正四年(一五七六)十一月二十五日。

 左中将。

 母は北畠晴具の娘というから、北畠具教の甥にあたる。北畠一族だけに官位の昇進は目覚しく、元亀三年(一五七二)一月十三日、従五位下、天正元年(一五七三)二月十二日、左中将(歴名土代)。

 天正四年十一月二十五日の北畠一族粛清の時、具教らと運命を共にした。『勢州軍記』によると、彼は剣の達人だったが、たまたま病に冒されて田丸城で伏せっていたところ、信雄の臣柘植三郎左衛門らに討たれたという。

 『北畠御所討死法名』に「従五位下大河内相模守教道」という人物が載っているが、具良と同一人であろうか。」※谷口氏は「教道」と表記していますが、『北畠御所討死法名』を見ると「教通」です。


>具良と同一人であろうか


谷口氏は教通と具良は同一人物ではないかとしています(一応疑問形ですけれど)。


ウィキペディア三瀬の変が具良と教通が同一人物だと思わせるような書き方なのは谷口氏の説によったのかもしれませんね。(織田信長家臣人名辞典の批判ではありません。あれだけの量の人物を調べまとめたのは偉大な功績であり、尊敬しています。)


しかし、系図を見ると具良と教通は別人なのです。

系図では大河内家5代目が具良、六代目が教通になっています。



勢州軍記で討たれた「大河内御所」はどちらなのか?



勢州軍記の著者神戸能房(良政)が晩年に書いたとされる『伊勢記』を見ると


『伊勢記』


「同日殺大河内家於其私第大河内御所式部大輔具良者兼行魔法兵法達者也 時病中在田丸宿所」


とあり。「大河内御所」とは大河内家五代目・具良であるとしています。


ところが、幕末の学者・斉藤拙堂が書いた『伊勢国司記略』では


「按ずるに、教通のこと系図に見えず。分脈※も具良に止まりたれど、法名帳に大河内相模守教通天正四年十一月二十五日於田丸生害とあるを以て、具良の後たることはしられたり。されば北畠物語に天正四年のころ、大河内御所と称せしも此人なることをしれり」※尊卑分脈のこと


とあり、斉藤拙堂は六代目の教通であるとしています。


それと、


>教通のこと系図に見えず


系図に教通の名はなかったんですね。三重県郷土資料刊行会の勢州軍記に載っていた系図にはあったので、私はてっきり教通の名がある系図が古くから伝わっているのだと思い込んでいました。(幕末に編纂された『系図纂要』には教通の名があります)




斉藤拙堂が研究にもとづいて作成したであろう大河内家の系図が『伊勢国司記略』にあります。それを見ると


「具良 母材親女 按ずるに、左中将たる由歴名土代に見えたり。原書ここに止まれり。

--------[教通] 按ずるに、法名帳に大河内相模守教通、田丸にて生害の由しるしたり。北畠物語此時の事をしるして名をあらはさず、大河内御所とのみあり。これ具良の子たることうたがひなし。故にここにかけたり。」


とあります。「北畠物語」は勢州軍記とほとんど内容が同じものです(ところどころ細部は違うようですが)。


北畠物語も「大河内御所」と記しているだけですが、斉藤拙堂は「教通」のことであると断定しています。




>母材親女


引用部分を見て「おや?」と思われた方もいるかもしれません。具良のお母さんって……?


では、その気になる点を述べたいと思います。



寛永諸家系図伝所収星合系図や寛政重修諸家譜では、晴具の娘(具教の姉妹)になっていますが……


しかし、尊卑分脈所収北畠系図では、具良の母は北畠材親の娘になっています。(参考 三重県史資料叢書4北畠氏関係資料ー記録編ー)


材親の娘であれば、具良は具教の甥っ子ではなくて、従兄弟にあたります。ややこしいですね。まあ、どっちにしろ親戚です。





それにしても、田丸の宿所で討たれた魔法を行う兵法の達人・大河内御所は具良なのか、教通のことなのか。

どっちなんだろう?




当時の史料(書状とか)が発見されればハッキリするかもしれないけど、今のところは「謎」ということですね。


私の現代語訳では原作者の神戸先生の説を採用して、具良ということにしましょうかね。




(追記 私が探した限りでは、教通の名がある史料が法名帳以外になく……、謎な人物ですね、教通。谷口氏が同一人物なのではないかと考えたのもわかるというか…。谷口氏の指摘はすごいと思います。)



★★さらに追記★★

法名帳に記されている「相模守教通」について、赤坂恒明氏「天正四年の『堂上次第』について─特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に─」で考察されています。興味のある方はぜひ。




ちょっと、わかりにくい話だったかな、と心配しています。私の文章が拙いということはもちろん、北畠の親戚関係とか、みんな名前が似ていてややこしい等々。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ