田丸家督の事
現代語訳した後に、私なりに勉強してまとめたことを載せていくスタイルです。
天正三年、信長は北畠具房を左中将に任じ、隠居させた。
また大河内城を田丸に移した。これにより、同年の冬、信雄は田丸に移り、北畠の家督を継ぎ、御本所と号した。その後、右大将に任じられた。
この時、田丸中務少輔、岩出城に移り、その父は隠居して一ノ瀬御所と号した。
具房は信雄と同じく田丸にいて御所に住んだ。
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■具房の隠居について
寛永諸家系図伝によれば、具房が所労(病気)であったために信雄(具豊)に家督を譲ったとのこと。具房はこの時まだ二十代、のちに三十代の若さで亡くなったことを考えるとあり得ることだとは思います。
■信雄の家督継承について
勢州軍記では冬に家督を継いだという記述ですが、夏に継いだみたいです。
多門院日記によると
天正三年(1575年)六月二十四日条に
「伊勢国司家ヲ御茶センニ廿三日ニ譲リ」
と記しています。
また、この頃の信長の黒印状にも信雄(具豊)のことが触れられています。
推定長篠合戦の直後の五月二十二日、信長は具教・具房宛に黒印状を出しています。
具房が「中将」になった詳細な時期は不明ですが、この黒印状では具房のことを「中将」と書いています。
内容は具豊(信雄)がもうすぐ帰ることを伝えるもの。信雄は長篠合戦に参加していたらしく、おそらく北畠の兵も信雄の配下として従っていたのでしょう。
多門院日記の記述と併せて考えると、長篠から帰ったら家督を継ぐ手筈だったのかもしれません。
つまり冬ではなく、夏ですね。
この年の七月、信雄は徳政令を発しています。新しい当主であることを知らしめるためでしょうか。この時期に「具豊」から「信意」に改名しています。北畠の新しい当主は織田の通字「信」のついた名の信長の息子というわけです。
信雄が当主の座についた天正三年は伊勢にとって、北畠にとって大きな変化の年だったのかもしれません。
ただし、この頃の信雄は北畠風の花押を使っていました。織田の息子でもあり北畠の息子でもある難しい立場だったのです。
新当主・信雄の発した徳政令は宮川以東の神領も対象だったようです。それだけでなく、宇治六郷に対し年貢をかけようとしました。北畠の領地ではない伊勢神宮サイドの人々にも強気な態度です。しかし、同年の十一月には宮川橋賃を山田三方に寄進、十二月には宇治六郷には徳政を免除したりと優しい態度になりました。伊勢を統治するには神宮サイドの人たちと仲良くしといた方が得策と考えたのか、あるいは父信長が伊勢神宮を信仰していたからなのかわかりませんが。
いずれにしろ、信雄が家督を継いだということを南伊勢、とくに宮川以東の神領の人々に強く印象づけたことでしょう。
(だいたいの位置↓ 宮川より東側にある山田と宇治)
(国土地理院のサイトの地図で作成しました)
■田丸城について
度会郡玉城町、玉城丘陵に築かれる。伊勢本街道、熊野街道が交わる交通の要衝。東国と船でつながる大湊と南朝の吉野を結ぶ中間地点であり、伊勢神宮へとつながる地です。
築城は北畠親房の伊勢下向と同じ時期の延元元年(1336年)の暮れだと考えられています。
伊勢神宮へ行くための主要な通り道であったこの地を拠点にした北畠は、北朝から任じられた祭主が田丸近辺を通れないようにするなど、北朝主導による伊勢神宮の祭祀を妨害していました。このためか、田丸近辺では南朝と北朝の戦いがくりひろげられたのです。
攻防の末、興国三年(1340年)、田丸城は北朝側の攻撃によって陥落しました。その後、北畠氏は一志郡の多気(多芸)に本拠地を遷します。
このように南北朝の攻防戦がくりひろげられ落城したこともある田丸城なんですが、南北朝の合一後も北畠氏の拠点の一つでした。
そして、あいかわらず田丸城とその近辺は攻防戦がくりひろげられていました。
北畠は神領を押領し、神三郡(飯野郡、多気郡、度会郡)を侵略をしていました。これに人々は抵抗をしていたようです。教具の時代には北畠は田丸城近くの地域で大規模な焼き討ちをしています。
少し時代が下って材親の時代。この頃、田丸城は山田三方との攻防の地でした。
田丸近辺は元々、内宮(宇治)の荒木田氏によって開墾された土地であり、そのため宇治の神人神役人のゆかりの地でもありました。宇治の神人神役人たちは田丸城近くの勝田村浜塚山に熊野権現を勧請し、伊勢神宮の参宮者を招き入れ繁盛していました。茶屋なども並び、また関所も置かれていました。
そして関所のことが原因で宇治と山田三方が揉めていたのです。
この宇治と山田とのにらみ合いに神領を押領する北畠氏の三者が絡み合って田丸近辺では抗争が繰り広げられたのでした。
明応年間、山田三方から北畠に「玉丸(田丸)に関所が置かれ参宮者が困っている。また玉丸山の上にいる武装した人たちが乱暴で近隣住民を悩ませている。何とかしてください」という主旨の目安状を提出していますが、北畠はこれを無視したようです。「玉丸山の上の武装した人たち」というのは、おそらく田丸城の北畠の兵士たちのことであり、関所も北畠容認のものだったのではないでしょうか。
……田丸近辺の関所によって山田への物資の運び入れも困難な状態なのに、田丸近辺は田丸城主の庇護のもと、栄えている。北畠に訴えても無視。しかもその北畠は神領をたびたび押領している……。
こうした不満を持っていた山田の人々によって田丸城は何度か攻撃を受けていたのです。
この頃の田丸城主は誰だったのでしょうか。
『勢州軍記』(田丸兵乱の事)には、天文年間に「田丸御所」が家臣の山岡一党、池山伊賀守に攻められ「田丸弾正小弼」が自害をした話があります。『勢陽雑記』ではこの弾正小弼の名を「田丸顕晴」としています。「あきはる」ではなく「てるはる」と読むらしいです。(中世古祥道氏『愛洲物語』より)
この「田丸顕晴」が初代田丸城主だという説が古くからありますが、史料がなく、実在の人物だという確証がないのです。
もうひとつ、古くからある説に初代城主は「愛洲忠行」であり、その後「北畠政勝」が田丸城に入り田丸氏になったとするものもあります。これは江戸時代の学者・御巫清直が唱えたもので長く定説とされてきましたが、現在ではこの説は否定されています。
では田丸城主は誰か。
当時の史料などから、北畠一族の坂内氏であろうという研究があります。神郡支配を強化するために重要な拠点に一族を配したのかもしれません。
また、当主クラスも田丸城に滞在していた記録があります。
『言継卿記』によると、弘治三年、山科言継が田丸城で晴具・具教にもてなされています。
国司父子が滞在し、しかも要人との面会に田丸城が使われたということは、当時この城がそれなりの施設があり北畠にとって重要なものだったということでしょう。
同じく晴具の時代の史料に「射和寺(現松阪市にあった寺)の鐘を田丸城で使うために貸してほしい」という国司奉行人奉書があります。田丸城には鐘があったんですね。お城で何のために鐘が必要だったのか?
そういえば、三瀬の変の時、田丸城における殺戮の合図は鐘の音でしたね……
■田丸城の大改修
田丸城を大改修したのは家督を継いだ信雄です。
玉城丘陵の西側を掘割り、石垣を積み、本丸には三層の天守をつくりました。また外城田川の流れを変え城下を守る外堀にしました。湿地を埋め立てて城下町の整備も始めたと考えられています。(参考 目崎茂和氏編『古地図で楽しむ三重』田村陽一氏執筆部分)
近世城郭の姿になった田丸城。伊勢神宮にお参りするために街道を通る人々は平野に現れた天守を見上げたことでしょう。
まだ若く、家督を継いだばかりの信雄がこの大改修を手掛けたのはすごいことだと思うのですが、世間的には信雄はアホ扱いされていますね…
■田丸氏について
史料上で初めて確認できる田丸氏は田丸具忠。
具忠は北畠材親の三男(あるいは四男)と伝わりますが、はっきりとはわかりません。坂内具祐の子である(晴具の甥)という説や晴具の子であるとする説もあります。
天文二十二年(1553年)、晴具のお願いによって具忠が左中将に任じられた記録があります。(『御ゆどののうえ日記』など)
次に史料上で確認できるのは田丸具勝。
永禄九年(1566年)四月二十三日のおゆどの上日記に侍従に任じられた記録があります。
「いせのたまる具忠子具勝ひやうふの小申たるふんにて侍従を申す」
このことから具忠と具勝は父子であることがわかります。
息子の具勝は五ヶ所の愛洲氏を滅ぼし、五ヶ所城に入った人物であるという説があります。が、史料が少なく、はっきりとしたことはわかりません。
そして田丸氏といえば、有名なのは
田丸直昌(直息)
今回の勢州軍記の記事にある「田丸中務少輔」は直昌のことだと思われます。具忠の子であるという話もありますが、史料がなく正確なことはわかりません。同じ田丸を称しているので親族なのでしょう。
直昌の妻は北畠具教の娘、阿古の方。元亀元年頃に結婚し、田丸直茂を生む。天正年間に阿古の方は病死。
後に直昌は蒲生氏郷の姉妹を後妻に迎える。(田丸辻郎氏『戦国武将岩村城主田丸直昌と北畠・田丸の歴史』より)
■岩出城について
「田丸中務少輔」は岩出城に入り、その父は一ノ瀬城に入りました。
田丸城を追い出された形ですが、岩出城も一ノ瀬城も南朝の拠点だったところです。
岩出城は田丸城の支城とされ、南の方に約四kmほどのところにあります。すぐ近くですね。
平安時代~鎌倉時代、神宮祭主の館があった場所であり、神郡支配のための重要な場所でした。そのため南朝は岩出を拠点のひとつにしたのでしょう。
岩出城址は戦後、開拓され農地になりましたが、明治、大正時代の記録によると城址は東西約210m、南北約230m。城下町を廻る堀もある総構えの立派な城だったようです。
この重要な城に信雄が田丸直昌を配置したということは、天正三年の時点では直昌は信雄派だったのだと思います。
各城のだいたいの位置です↓
(国土地理院のサイトの地図を利用して作成しました)
私なりにまとめましたが、間違えているところがあるかもしれません。あったらごめんなさい。
詳しいことが知りたい方は参考文献をお読みください。
参考文献
中世古祥道『伊勢愛洲氏の研究』(1975年)
田丸辻郎『戦国武将岩村城主田丸直昌と北畠・田丸の歴史』(1996年)
中世古祥道『愛洲物語』(1999年)
玉城町史ダイジェスト版編纂委員会『ふるさと玉城の歴史』(2001年)
三重県玉城町史編纂委員会『三重県玉城町史』上巻(1995年)下巻(2005年)
『伊勢市史第二巻中世編』(2011年)
目崎茂和編『古地図で楽しむ三重』(2016年)
河内将芳「(天正三年)五月二十ニ日 織田信長黒印状写」奈良史学37号(2020年)
千枝大志編『街道今昔 三重の街道をゆく』(2023年)
ブログ「大納言の倉」
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