長島退治の事
今回は第三次長島攻めの記事です。
第二次長島攻めについては
55話「信長お怒り~大湊衆の抵抗~」
をご覧ください。
天正二年甲戌秋七月、信長・信忠父子は美濃、近江、伊勢、尾張の八万余りの軍兵を動員し、長島を攻めようと発向し、そして数十日間、在陣した。九月下旬には、一揆はことごとく滅亡する。
しかし、九月二十九日の一揆没落の時に織田方も信長の兄・信広ら一族の重要な人たち十余人が討死したという。
この長島攻めでは、北畠三介信雄、神戸三七信孝が大島城を攻めた。長野上野介信包は唐櫃城(加路戸砦?)を攻めた。
また、伊勢国の住人、峯八郎四郎、同鹿伏兎六郎四郎たちは信孝に相伴して長島で討死した。それから関盛信の嫡子関四郎は蒲生家に相伴して討死した。
その頃、蒲生父子は柴田家の与力であった。大鳥居城を攻めた時、蒲生氏郷は敵中に入り、剛の者と取っ組みその首をとり信長卿に捧げた。
これを見た信長は嘲笑って
「首をとるのは士卒の仕事だ。お前が危険をかえりみず敵を討ったことは誉めるべきことではないよ」
と言った。
その後、信長卿は長島を滝川家に任せて軍勢を引き上げた。
そして長島の落人は各地で討伐された。南の方に落ち延びた者たちは縣(松阪市の阿形)の法蔵寺に立て籠った。信雄は本田方に命じ船江衆に攻めさせ落人をことごとく討ち取った。
─────────────────────
有名な信長による長島一向一揆の制圧です。
信長の息子を養子に迎えていた北畠はその時、どんな感じだったんでしょうか。勢州軍記ではそこの所あまり触れられていませんが、ちょっと調べてみました。
■北畠に属していた人が長島周辺にいた??
長島や長島に近い桑名に北畠に属した人たちがいたという伝承があります。その人たちを紹介しましょう。勢州軍記には出てこない人たちですけど。
・服部左京亮友貞
前回でも紹介しましたが、『勢陽五鈴遺響』(安岡親毅著。天明年間に書き始め、天保四年に完成)によると、永禄四年以降、服部左京亮は北畠具教に属し長島城にいたとされていますが、史料がなく本当のところはよくわかりません。
また寛政重修諸家譜の服部氏の系図を見ると、話が違うのです。
系図にある「服部政光」という人が左京亮友貞と同一人物ではないかと私は思うのですが、この政光は永禄三年以降、家康(松平元康)に仕えていて北畠には属していません。
他にも服部左京亮の末裔だとする家がありますが、その家伝には北畠に属した話はないようです。
・伊勢三郎氏直
『勢陽五鈴遺響』によると、桑名府城に「永禄年中伊勢三郎氏直所知して住ス多気国司北畠具教家ノ属官ナリ」と伊勢三郎氏直なる人物がいたと書かれています。
北畠具教の「属官」だったということですが、いったい何者なのか?本当に具教に仕えていたのか?それを示す史料がなく謎です。江戸時代にそういった伝承があって『勢陽五鈴遺響』に書かれたのかもしれません。
・矢田半右衛門俊元
『桑名郡誌』(明治初年から20年代にかけて旧桑名藩士江間政発が編纂)によると、元は安芸の毛利に仕えていた山内俊行の子。元亀2年、毛利vs菊池の戦いで父が討死したために半右衛門は毛利家を去り、北畠に属したとのこと。後に北勢に来て矢田に城を築きそこで暮らし「矢田」を名乗り、近辺の武士は半右衛門の幕下になったと記されています。
そして天正五年に矢田城は滝川一益によって落とされ半右衛門は自害します。
……「天正五年」というと、長島制圧から約三年後ですね。これは矢田半右衛門が抵抗を続けていたということでしょうか? 詳しいことが知りたいのですが、史料がなくよくわかりません。
また、北畠に属していたというのも、詳しい実態がよくわかりません。流浪の身になった半右衛門が一時的に北畠に仕えていただけなのか? それとも何かしら安堵された被官関係だったのか? よくわかりません。
※『伊勢名勝誌』によると「矢田城」は二つあります。ひとつはすでに紹介した半右衛門の城で字城山観音堂にあった城。
もうひとつは字城山愛宕社のあった城で矢田市郎左衛門が城主。半右衛門との関係は不明。永禄十一年織田に滅ぼされました。
・安藤季成
『伊勢名勝誌』によると屋良島砦(柳ヶ島城)は北畠氏に属した安藤季成が築いた城なんだそうです。季成は元亀二年に織田の兵と戦い死にます。が、天正二年の第三次長島攻めでは屋良島砦は最後まで徹底抗戦しました。老若男女二万人が織田方によって焼き殺された場所です。
伝承とはいえ、長島近辺に北畠に属したとする人たちがこんなにもいるとは……北畠の領地ではない地域なのに、なぜ?
長島攻めより前の永禄年間に桑名を含む北勢は信長麾下の滝川一益によって攻略されています。
が、中には完全に降伏していない国人領主もいたみたいなんです。信長公記によると、天正元年(元亀四年)にも信長は北勢を攻め人質を出させています(※)。そして第三次長島攻めでは彼らは「桑名衆」として織田にしたがって長島を攻める側になったようです。
((※)永禄10年の時点で北伊勢の国人領主たちはすでに織田に属していて、あらためて臣従の意を表すため天正元年に人質を出しただけとする説もあります。)
こういった状況であったとすると、もしかしたら北伊勢の国人領主の中に反織田派があって北畠に接近していたのかもしれませんね。
もしくは信長の伊勢攻めより以前に、美濃勢や六角氏や、長野氏に対抗するために北畠と誼を通じていて「北畠に属した」という伝承が生まれたのかもしれません。応仁の乱の時、北伊勢の国人は長野氏や美濃勢に対抗するために北畠氏と結んで戦っていたらしいので、ありえる話だと思います。
あるいは、北畠が伊勢守護職に任じられた永正年間(1500年代)、北伊勢を北畠が支配していた時に一時的に従っていたのを後世「北畠に属した」と伝えられたのかもしれません。
(永正年間は北伊勢をめぐる北畠氏と長野氏の争いが激しい時期であり、北畠がどれくらい支配力があったかは不明です。その後長野氏が優勢になりますが、六角氏・梅戸氏の進出により北伊勢における長野氏も弱まります)
つづいては、北畠家臣の中から長島に派遣されたと伝わる人たちを紹介します。
・水谷大和守
『三重・国盗り物語』の付録にある北畠家臣録に「水谷大和守 国司の下知にて長島に加番」と記されている人物がいるんですね。
しかし、私が探したかぎりこれに関わる史料や文献等がない。おそらく、同じ名字の大鳥居城城主「水谷与三兵衛盈吉」という人物や、本願寺から派遣された寺侍の「水谷兵右衛門」という人物と混同され、家臣録に誤って記されたのだと思います。
北畠家臣の「水谷」といえば、勢州軍記において四管領の一人とされています。桑名の土豪にも「水谷」姓の人が多数いますが、どういうつながりがあるのかわかりません。たまたま同じ名字なだけなのか…
・大島讃岐守
これもまた、北畠家臣録に載っている人物です。
太平記に登場する清和源氏新田茂重の末葉だと記されています。そして、この人の経歴を見ると、「長島城主」であり天正二年八月長島において織田軍と合戦し、信長を追い返したとあるのです。
ちょっと待って。北畠の家臣が長島の城主で織田相手に戦い勝利した? そんな史実あったっけ?
そう疑問に思って色々本を読んでみた私の結論は、これは後世の誤伝であろうと。
長島の「大島砦」を守っていた「大島新左衛門親崇」という人がいるんですね。この同じ名字の人と北畠家臣の大島さんが後世に混同され、家臣録の経歴に書き加えられたのでしょう。
さて、大島砦の「大島新左衛門親崇」についても少し紹介しましょう。
長円寺の寺伝によると、大島親崇の父・淨念は三好長輝の弟で、本願寺実如の弟子になります。そして伊勢国に来て、長円寺を開きました。
息子の淨賢新右衛門親崇は長島に入り、大島姓を称しました。
親崇(淨賢)は大島砦の将として織田軍と戦い、落城後、一時海部郡前ヶ須に立ち退きますが、再び大島に戻ってきて長円寺の寺基を定めたそうです。
そして、親崇(淨賢)は豊臣秀次とも関係があったそうなんです。親崇の娘於国は秀次の側室になり、秀次切腹事件の後、於国も悲しい最後を迎えました。
(参考 長島町誌上巻p353〜354)
★北畠家臣録について★
「天正十年六月」に大嶋内蔵頭によって書かれたとされる北畠家臣録。現代ネット上にある北畠家臣の情報のほとんどはこれが元ネタだと思われます。
北畠家臣録は色々写本があってタイトルも様々(北畠家臣帖、北畠秘録家臣の部、伊勢国司諸侍役付けetc)ですが、どうも江戸中期以降に書かれたもののようで、信憑性がわからないのです。「創作」であるという話もあって、「天正十年」に書かれたはずなのに関ヶ原の戦いの時の話が書かれていたりします。
なので、大島讃岐守や水谷大和守の話をすなわち「史実」だとするのは慎重になるべきだと思うのです。
(参考 『三重県総合博物館第29回企画展 寺院に伝わる戦国の残像〜北畠氏のいた時代〜 図録』『一志郡史上巻』p131 『一志町史上巻』p500)
ネット上で見られるこのような北畠家臣録を元にした情報は歴史的事実ではありません。
ですが、北畠家臣録の記述は信頼できないとしても、北畠と長島のつながりを全否定はできないのです。
↓
■反信長が集まる長島。北畠や関一党、神戸なども長島を助けてた?
長島河内には反信長の人々が集まり、一大武装勢力になっていたと考えられます。
北畠具教や神戸友盛、関一党といった伊勢の有力者たちも長島を援助していたかもしれない……
というのも、『勢州軍記』の著者が編纂した『伊勢記』にこんな話が載っているのです↓
「北伊勢諸侍亦相悪滝川者援長嶌或云前国司具教卿并神戸友盛等以内意援之云云」
意訳・「滝川を憎む北伊勢の諸侍は長島を助けた。また神戸友盛や北畠具教は密かにこれを援助したという話もある。」
また、関氏についてもこんな話が↓
「先年属六角家暫敵対近来蔑如信孝援長嶋」
意訳・「前は六角家に属し信長と暫く敵対しており、最近は信孝を蔑ろにし長島を援助している。」
伊勢記はあくまで江戸時代初期に書かれたものなので、どこまでが事実かはわかりません。しかし、こういった噂は当時あったのではないでしょうか? そしてその噂を聞いた信長は神戸氏や関氏を幽閉したのかも……?
■織田による長島攻めの時期、北畠は独立していたのか?織田に服従していたのか?
さきほど北畠具教が長島を援助していた可能性を紹介しました。
が、しかし、当時の史料を見ると北畠は織田に味方しているように見えるのです。
55話「信長お怒り~大湊衆の抵抗~」で紹介した大湊への出船命令書等を見ると北畠は完全に織田の意向に従っています。
でもその一方でほぼ同時期の山田の福島御塩焼大夫家への強権発動(54話信長に処刑された福島親子?Wikipediaの記述に疑問。を参照のこと)を見ると独立性があるのです。
これはどういうことか?
あくまで素人の考えですが、強大な織田グループの傘下に入った北畠が増長し、山田への支配力を強めた時期であった、と言えるのではないでしょうか?
表向きは織田に協力しその力を背景に家を大きくし、一方では織田の敵である長島を援助していたとすると、北畠は策士ですね。
あるいは、北畠の中で織田派と反織田派に分かれていて、反織田派の勝手な判断で長島を援助していたのかもしれません。
■鹿伏兎六郎四郎の死亡時期と関四郎
鹿伏兎六郎四郎は元亀二年に氏家卜全を討った後に討死したという話が伝わっています。しかし、『勢州軍記』やその他諸書では天正二年に信孝に従って長島で討死したことになっています。いったいいつ死んだのか? わからない。 ちなみに鹿伏兎氏族譜では「天正二年」に氏家卜全を討った後に亡くなっています。混乱が見られますね。
鹿伏兎四郎は天正二年、鹿伏兎氏の支城・林城が織田・滝川に命じられ雲林院氏によって攻撃された時に戦った話もあるので、反織田派だった可能性が高い。それが何故、勢州軍記では信孝に従って長島攻めに参加したことになっているのか? よくわかりません。
『鈴鹿郡野史』は結論を出さずに「本項ヲ未定稿トナス」としています。
それから関四郎。今回の長島攻めで関氏の嫡男、関四郎も討死してしまいました。関四郎の父関盛信は織田によって幽閉中です。嫡男四郎は父の幽閉を解いてもらうために武功をあげたかったのでしょうか。
ところで、幽閉中のはずの父・盛信が天正2年の8月に樋口直房を討った記録が残っています。
「幽閉」というよりは、「織田の監視下で行動していた」ということだったのかもしれませんね。
関氏については次回詳しくお話しいたします。
■氏郷について
意外なことに『信長公記』の長島攻めの記事には氏郷は登場しないんですね。しかし、『勢州軍記』にはちゃんと氏郷と信長のエピソードがあります。『勢州軍記』の著者神戸良政の父は蒲生家に仕えていましたから、書いておきたかったんでしょう。
長島攻めにおける氏郷の活躍は勢州軍記の他にも書かれているものがあります。
『氏郷記』によると、「松木の渡し」を一番乗りで乗り越えて敵中に入って戦ったということです。
松木は松之木とも記され、ここを守っていたのは「森小一郎」という人らしいです。木曽川、長良川が合流する地点で渡しがあったそうです。そして美濃路につながる重要地点であり、天然の要塞でもありました。ここを突破した氏郷、すごい。
ちなみに現在の松之木渡跡は明治の大規模な河川改修によって川底に沈んでしまっています。
ところで、氏郷と長島一向一揆といえば、興味深い話が伝わっています。
当時13歳の長島願証寺の住持顕忍が氏郷の地元日野に逃げ延びて、なんと氏郷は顕忍を匿ったというのです。顕忍はその後、天正11年、日野の村井南新町の「長島山願証寺」の住持になったのだとか。
■信雄の華やかな初陣
この第三次長島攻めは信雄の初陣でもありました。
信長公記に記された華々しいデビューの様子を見てみましょう↓
「国司お茶筅公、捶水、鳥野屋尾、大東、小作、田丸、坂奈井、是れ等を武者大将として召し列れ、大船に取り乗りて、参陣なり。諸手の勢衆、船中に思ひ思ひの旗じるしを打ち立て打ち立て 、綺羅星、雲霞の如く、四方より長島へ推し寄せ、既に諸口を取り詰め、攻められ(以下略)」
この時まだ信雄は北畠の家督を継いでいませんが、『信長公記』を見ると、すでに北畠の主要な一族である木造(小作)、田丸、坂内(坂奈井)、そして家臣鳥野屋尾を率いて戦に出る立場だったのです。
(※「捶水」は不明ですがおそらく「垂水」で藤方御所のことだと思います。
「大東」も不明ですが、神戸能房の『伊勢記』に「于異大河内」と記されていたので大河内御所のことだと思います。)
そして、「綺羅星、雲霞の如く」という表現。
信雄が北畠のそうそうたる武者大将たちをひきつれ、さながら軍艦パレードのように伊勢湾に乗り出した光景が想像できます。
北畠の一族や家臣は何を思ったでしょうか?
「これからは新しい時代や! 俺は次期当主についていく!」
と心酔した者がいたかもしれません。
■武功夜話の記述
武功夜話にも長島攻めの時の信雄のことが書かれています。
偽書説がささやかれる代物ではありますが、紹介します。
「大浜始め志摩郡、一志郡、阿漕浦等大舟小舟を蒐集め、舟子ども併せ飯野郡、度会郡の武者輩二千有余人、桑名浦へ漕ぎ寄せ御茶筅様の旗下へ参集、初陣晴ヶ間敷出船に候」
武功夜話でも信雄は伊勢の船、武者を率いて華やかな初陣をかざっていますね。
ただ、武功夜話を読み進めていくと、ちょっと気になる記述がありました。↓
「信長公積年の御鬱憤を御晴しなされ、後々の事伊勢衆に仰せ付けられ岐阜へ御帰陣(中略)長島落去の後、勢州北畠衆長島を片付け仰せ付けられ」
長島城落城後の後片付けを北畠衆はさせられていたというのです。
信長は長島を容赦なく根切りしたと言います。その後片付けとは……。北畠衆にしてみたら、織田の戦のために駆り出された挙句、惨たらしい現場の処理をさせられるのです。ひょっとしたら、北畠衆の中には浄土真宗の門徒もいたかもしれません。織田に対する不満を抱いた者がいてもおかしくない……。
『信長公記』と『武功夜話』を読み、想像をたくましくするならば、信雄の初陣は北畠の家中に織田に心酔する者と織田に反発する者という相反する両派を生み出してしまったのかもしれない……。そして両派の溝は深まり、後の三瀬の変の遠因に……。
まあ、あくまで想像です。そもそも武功夜話の信憑性がよくわかりませんからね〜。
■長島一向一揆に関する史料少ない
あの織田信長が苦戦し数年がかりで制圧した長島一向一揆。その知名度のわりには関連する史料があまり残っていません。
なぜ史料が残っていないのか。信長の長島攻めによって当時の書状など燃えてしまったと考えられますし、また第二次世界大戦中の空襲、そして戦後の伊勢湾台風によって東海地方にあった史料が失われたようなのです。
数少ない残っている史料、軍記物、各地の伝承などをひとつひとつ集め、丹念に長島一向一揆の実像にせまる研究者の先生方を尊敬します。
■参考文献
『改訂史籍集覧第十四冊』
安岡親毅『勢陽五鈴遺響』
今村義孝『蒲生氏郷』
福永保『近江日野が生んだ名将 蒲生氏郷が攻めた城・築いた城』
瀬川欣一『蒲生家盛衰録』
山中為綱『勢陽雑記』
太田牛一『信長公記』
小川雄「織田政権と北畠信雄」
柴田厚二郎『鈴鹿郡野史』
『桑名市史』
伊藤重信『長島町誌』
金森勝『長島風土記』
稲本紀昭「織田信長と長島一揆」
水谷憲二「北伊勢地域の戦国史研究に関する一試論(1)」
西山克『道者と地下人』
金龍静『一向一揆論』
『伊勢市史 中世編二巻』
四日市学講座No.3『戦国時代の北伊勢』
石神教親「「長島一向一揆」再考」『織豊期研究』(16)