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長嶋発向の事

お久しぶりです。遅くなってすみません。

元亀二年夏五月、信長卿は近江、美濃、尾張の五万余りの軍勢を率いて北伊勢の長島に発向した。

織田の軍勢は津島口、中筋口、西美濃多芸口の三方に分かれて島々に攻め入り、ことごとく放火して引き上げようとした。その織田の軍勢を一揆勢は追いかけた。

柴田修理亮勝家の軍が殿をつとめ、一揆勢と合戦した。この時、氏家卜全は一揆勢に討ち取られ、織田方は敗けた。


──────────────────────


尾張、美濃、伊勢の中間にある長島河内。

周辺には本願寺派の寺が多く、長島願証寺はこの辺りの中心的な存在になっていました。

反信長であったうぐい浦の服部左京亮も本願寺派の興善寺の大檀那でした。



■長島攻めに至るだいたいの流れ

永禄3年(1560)5月、服部左京亮、桶狭間の戦いの時に今川義元に援軍を出す(『信長公記』)。

翌年、服部左京亮は北畠氏に仕え、長島城を修造する。(『勢陽五鈴遺響』より←江戸時代の書物だから本当の話かわからない)

永禄6年(1563)、三河一向一揆。家康に敗れた門徒たちは長島に逃げ込んだかも……長島の兵力増加につながった?

永禄年間、信長は寺内の収奪、破却をすすめていった。→各地の寺内から逃れた反信長の人々が長島に集まっていく。

永禄8年3月、本願寺は甲斐武田氏と同盟。9年4月には近江六角氏と同盟。

永禄9年〜11年にかけて信長は滝川一益に北勢を攻略させる。また永禄10年(1567)、信長に敗れた斎藤龍興が長島に逃げ込む(←長嶋の兵力増加したか)。

勢州軍記によると永禄10年には信長自ら出陣。

里村紹巴の日記に「夜半過ぎ西を見れば、長島おひ落とされ、放火の光おびただしく」とあり、信長によって北勢で焼き討ちがあったみたい…

永禄11年(1568)正月、服部左京亮、北畠氏に正月の挨拶に出かける際、信長の謀略にかかり自害したという伝承。(『伊勢名勝誌』より)

(ただし、長島落城後に落ち延び北勢町のお寺の祖になった話や荷之上に帰ったという話も伝わっており、服部左京亮の死亡時期については本当のところはわからない)


同2月、信長、神戸氏と和睦。

信長、本願寺に五千貫の矢銭を賦課。

永禄12年(1569)、信長、伊勢の北畠氏を攻める。和睦。

元亀元年(1570)8月、本願寺の顕如、全国の門末へ檄を飛ばす。同11月、信長が近江に出陣している間に、信長弟・信興を長島勢が討つ。

(※伊勢軍記、勢陽五鈴遺響などではこの年に長島城主の伊藤氏を追放したとしていますが、それを示す史料はなく伊藤氏は永禄以前にはすでに力を失っていたと思われます)

元亀2年(1571)2月、蟹江城の滝川一益が長島河内の加路戸砦を攻める。4月にも岐阜から兵を投入し河内を攻めるも撤退。

元亀2年(1571)5月、信長、長島を攻める(第一次長島攻め。今回の現代語訳該当記事)。

この時、桑名郡の諸侍と諸社は多度権現に信長調伏を祈願。



ざっと流れをまとめてみましたが、こうやって見ると伊勢の北畠攻めは長島攻めの前哨戦に見えないこともない……?


長島と北畠のつながりについては次回色々お話しします。


■氏家卜全を討ち取ったのは誰?


『尾張国海部郡市江村誌』に市江村西保のお寺「善定坊」の「佐藤明見」という人が氏家卜全を討ち取ったという話が載っていました。

(ちなみに善定坊は越前の朝倉氏の家臣だった佐藤隼人正善定が創建したお寺だそうです。)


ところが、伊勢国の関一族である「鹿伏兎六郎四郎」が討ったという話もあるのです。


氏家卜全を討ち取ったのは「佐藤明見」なのか「鹿伏兎六郎四郎」なのか?(※)


どちらが真実なのかはわかりません。

私が思うに誰か一人が討ったのではなく、大勢が群がるようにして卜全を死なせたんじゃないかなぁと。

『美濃国諸旧記』には「卜全が動けなくなったところに一揆勢が群がった」というようなことが書かれています。


ちなみに鹿伏兎六郎四郎は、「六郎四郎」という名の一人の人物なのか、「六郎」と「四郎」の二人の兄弟なのかよくわかりません。本によって違うんですよね。


鹿伏兎六郎四郎については次回の記事で出てきますので、詳しく話します。


(※)追記

佐屋町史史料編四巻p411にある佐藤家文書を確認したら「織田の将士氏家常陸介卜全と渡り合ひしが下間手練の者に無難卜全ハ射たれけり」とありました。

卜全を討ったのは誰なのか、伝承がいくつかあってよくわかりませんね…

Wikipediaでは「佐々木祐成」という人が討ったことになっていますが、出典が見つかりません。



次回『長島退治の事』は近日中に投稿します。


参考文献

金龍静『一向一揆論』

『佐屋町史』

『三重国盗り物語』

『長島町誌』

『長島風土記』

『勢陽雑記』

『勢陽五鈴遺響』

『鈴鹿郡野史』

四日市講座No.3 『戦国時代の北伊勢』

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