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大淀城について~九鬼嘉隆と三人の将〜

長島攻めについて訳す前に大淀城について書きます。

三重県の明和町にかつてあった大淀城。

この城についてネットで検索すると「永禄十二年、信長の伊勢攻めの時、九鬼水軍が攻略した」という情報が出てきます。しかし、ちょっと調べてみるとそれは正確な情報ではありません。

江戸時代に記された『三国地誌』を見ると、大淀城についてこう書かれています↓


「国司具教卿の築く所なり。九鬼嘉隆織田氏に党し、永禄十二年九月兵船を師て此城を攻む。城兵鈴木大蔵貞経・安西右衛門尉昌綱・中西入道玄誓等堅く守り、九鬼敗潰す」


九鬼は「敗潰」(負けている)しているのです。


『明和町史』を見てみると

「……永禄十二年織田信長の阿坂、大河内攻めの時信長の命を受けた九鬼嘉隆の水軍に攻められよく戦い之を撃退したが、また信長の来攻を受けて遂に落城……」

とあり、『明和町史』でも九鬼は「撃退」されています。


三重県郷土資料叢書第19集(昭和44年)『大淀郷土史』では

「九鬼嘉隆は兵船数百艘を持って伊勢の国でその兵力を誇っていましたが、織田信長の命により多くの兵を乗せて大淀の海岸に攻めてきました。(中略)ほうほうのていで船に乗って海に逃げ、飯野郡黒部(今の西黒部)の浜に上って信長の勢と合流したということです。この戦いでわが将兵は実によく戦いましたが、中でも安西右衛門昌綱、鈴木大内蔵貞経、中北入道玄誓という人たちは戦功があったというので、具教から感状が出されて、お賞めの言葉を賜りました」


と書かれています。『大淀郷土史』でも九鬼は敗走し、大淀城は落ちていません。しかも、活躍した三人の将に北畠具教から感状が出されたというではありませんか。その感状はどのようなものか、ちょっとご紹介します↓

「去九月七日九鬼右馬允艤兵船攻討其表之処忽嘉隆勢及敗走之候偏在所等之武略寔令感入畢追有忠賞之沙汰者也仍如件

              具教印

  永禄十二年十一月廿一日                             」


(意訳)

「九月七日に九鬼右馬允が船で攻めてきたが、九鬼はたちまち敗走した。あなたたちの武略がすばらしかったことに感じ入りました。追って褒賞のお知らせがあります。」


やはり、感状の内容を見ても九鬼は「敗走」しているのです。


では、なぜ、ネットでは九鬼が勝利し大淀城が陥落したことになっているのか?

私の予想ですが、九鬼嘉隆は強いという先入観ゆえに城址にある看板を見て「永禄十二年に九鬼によって落とされた」と勘違いしてしまう人が多いこと、

挿絵(By みてみん)

そして小説の影響が大きいのではないかと思います。

 歴史作家白石一郎氏が九鬼嘉隆を主人公にした小説を書いているのですが、その小説では九鬼が大淀城を陥落させたことになっているのです。なぜ、九鬼が大淀城を陥落したストーリーになっているのか? 

 参考文献が記されていなかったのでハッキリとは言えませんが、おそらく昭和四十一年に書かれた浜口良光氏の『水軍の名将 鳥羽城主 九鬼嘉隆伝』で提唱された説を採用したのであろうと思います。

 浜口氏は感状をもらった安西右衛門昌綱、鈴木大内蔵貞経、中北入道玄誓の三将が「戦死」していることに注目し、「三将を戦死させる程であれば嘉隆軍大勝と見て差し支えなかろう。」と九鬼勝利説を提唱しているのです。(『鳥羽市史』でもこの説を採用しているのか九鬼嘉隆が三将を戦死させたとしています)白石一郎氏はこの説をもとに執筆したのでしょう。

 しかし、私はこれには反対意見をもっています。たしかに三将は「戦死」しています。でも、それは九鬼に攻められた永禄十二年ではありません。三将が戦死したのはおよそ七年後の天正四年だと思うのです。

 先ほど紹介した『大淀郷土史』に、江戸期に書かれた『大淀名勝誌』が引用紹介されています。その引用部分を見ると三将が天正四年に戦死していると読めるのです。


「かくて大河内の寄手数日をふれども勝利の色更に見へさりしかは信長卿一旦和睦の謀をなし給ひ二男茶筅丸御曹子を具房の猶子と定め京師に凱陣し給ひけり勢州一先一統して泰平を謡ひし処に又天正四年十一月下旬信長卿滝川柘植長野藤方等に命して国司を殺せしむ爰において国司の氏類尽断絶せり干時大淀の城を討手として(他方之砦城等尽皆有討手之勢今省略)岩手の城主何某発向のきこへ有しかは忽反応の者出来て民屋に火を放つ折ふし暴風烈しく吹て余燼砦城に罹りさしもにいみしかり大厦高檣これか為に一時の灰燼となりて須叟将変の烟を残し盛者必衰の形をあらはせり

 鈴木 大内蔵貞経(中略)

 中北 入道玄誓(中略)

 安西 右衛門尉昌綱(中略)

の徒も倶に焔火の中に飛入りて死す其外恥を志り義を重するの勇士兵三十一人尽く自殺せり」


(意訳)

「織田軍が大河内城を攻めて数日たっても勝てそうになかったので、信長はいったん和睦をすることにして二男の茶筅丸を北畠具房の養子にして京都に帰りました。ひとまず伊勢の国は統一され平和でありました。ところが、天正四年十一月に信長は滝川柘植長野藤方らに命じて北畠具教を攻め殺害し、その一族も殺害したのです。領内の城もことごとく攻められ、大淀城にも岩手の城主が攻めてくるという噂が流れました。その噂を聞いた者が織田側に寝返り城下の民家に火を放ちました。強い風が吹いてその火が大淀城に燃え移り柱も燃えてしまいました。年老いた将は火の中で死に、鈴木・中北・安西の三将も火の中に飛び込んで死にました。そのほか名誉を重んずる勇士が三十一人自死しました」


私の解釈が間違っていなければ、大淀城が陥落し三将が戦死したのは天正四年だと思うのです。

明治二十二年刊行の『伊勢名勝誌』(宮内黙蔵著)でも天正四年に大淀城は陥落したと解釈しています。



以上、『大淀名勝誌』と具教が出した感状、勢州軍記などを合わせて時系列をまとめてみます。


永禄十二年九月七日、九鬼が大淀城を攻めるも海に敗走

九鬼は織田軍と合流して黒部から上陸するも船江衆に撃ち返される

永禄十二年十月、織田と北畠が和睦

十一月、北畠具教が鈴木・中北・安西に感状を出す

天正四年十一月、三瀬の変。北畠具教が織田派の者によって殺害される。ほぼ同時に領内の城も織田派に攻められる。

大淀城陥落。三将も戦死。


という流れだと思います。城址の看板では大淀城が陥落したのは「永禄十二年」だとしていますが(;^ω^)(『明和町史』では九鬼を撃退した直後に織田軍に攻められ落城したと解釈しているので、看板もその説を採用したものと思われます)


 大淀城の遺構は江戸時代、大津波ですべて失われたそうです。あの九鬼嘉隆を撃退した三将の遺骸を葬った塚もあったそうなんですが、昭和の頃に耕され無くなってしまったそうです……。ちょっと切ない。

 大淀城を九鬼が陥落させた説、九鬼が負けた説。

 どちらを信じるかは読者様次第です。ですが、後者の説が忘れ去られ、前者の説ばかりがネット上で拡散されつづけ、三将の活躍がなかったことにされるのは地元民としては悲しい話です。


 ネットの片隅ではありますが、三将の顕彰の気持ちをこめて今回は記事を書きました。

挿絵(By みてみん)

大淀城の記念碑。花が手向けられています。

この記念碑の裏面に

「当所は永禄年間伊勢国司旧北畠具教卿御分塁ニシテ其郭内弐町余ニ亘レリト云フ 昭和三年一0月建之、大淀町東世古中」と彫られています。が、苔むしてて読みにくかったです……


参考文献

阿児青児『私本志摩軍記』

『三重県郷土資料叢書第19集 大淀郷土史』

浜口良光『水軍の名将 鳥羽城主 九鬼嘉隆伝』

白石一郎『織田水軍の将・九鬼嘉隆 戦鬼たちの海』

宮内黙蔵『伊勢名勝誌』

三重県教育委員会『三重の中世城館』

『明和町史』

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― 新着の感想 ―
[一言] 九鬼嘉隆! すごく馴染みはあるけれど、詳しくは知らなかったので勉強になりました。
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