山田三方について
※今回は画像が多めです。
以前、山田に関することで間違ったことを書いてしまったので、その訂正です。
外宮の門前町山田
この町の行政を担っていたのが「山田三方」。もともとは「三」つの「方」、つまり三つの地域の有力地下人組織が合体してできた自治組織です。
■そもそも「山田三方」はどんな人たち?
古来、内宮(宇治の方)の神主を「荒木田」姓の人たちが、外宮(山田の方)の神主を「度会」姓の人たちが受け継いできました。そして神主のトップである禰宜より下の身分の神主たち(主に権禰宜)が「御師」を兼業していました。彼らは参宮者に宿泊所を提供したり、また商業的な活動もしていました。そして、しだいに荒木田度会姓ではない人たちも、「御師」の活動するようになったのです。
中世後期頃(だいたい室町時代あたり)、伊勢参宮が増加しました。異姓(度会姓、荒木田姓ではない人たち・神役人)の人たちも宿泊業など「御師」活動をして力をつけたのです。とくに山田は交通の便がよく参宮者が多く訪れました。まあ、簡単に言うと参宮者が増えて門前町は儲かったんですね。
そして強くなった彼ら(神役人)は「三方土一揆」として結束し、昔からの有力者で身分的にも上の神人と対立するようになったのです。いわゆる下剋上ですね。
★神人…度会、荒木田姓の神宮権禰宜層が主体。神宮の祭祀に関わる。
★神役人…橘姓・羽根姓などの異姓の職掌人。(神事に使う道具etcを作ったり調達したり色々……とりあえず神人より下の身分の人たちだと思ってください;)
正長の土一揆の影響を受け対立し、山田の神人VS神役人の戦いは何度かありました。そして最終的には神人が敗北。よって、神人(=外宮)の支配は弱まり、神役人は力をもつようになりました。そして後の自治組織「山田三方会合」へとつながるのです。
しかし、神人が排除されたわけではありません。神人と神役人は和睦し、神人も「山田三方」に加わっています。
そうです、「山田三方」の構成員は、山田の神人、神役人たちであり「伊勢御師」なのです。
山田三方の皆さん=下層の神官たち=伊勢御師
(伊勢御師についての詳しい説明は第56話「信長に処刑された親子?Wikipediaの記述に疑問」を参照してください)
参考
『伊勢市史』
岡野友彦『中世伊勢神宮の信仰と社会』
■宇治は……?
「宇治六郷」についても説明しましょう。
内宮の近くの上二郷(岡田・岩井田)とちょっと離れたところの村落の下四郷(中村・楠部・朝熊・鹿海)の自治組織の連合体が「宇治六郷」です。
上二郷の有力集団の長が中心となって自治が行われていました。山田のような神人VS神役人の目立った争いはなかったため内宮に支配されつつ発展しました。
では、宇治は山田と違って穏健派だったのかというとそうでもないですね;
「宇治山田合戦」についての説明は今回は省きます。とても複雑な話で、わかりやすく説明するのは素人の私には不可能なのです; 少し勉強をしてみてわかったことは「あ、これ、素人が生半可な知識で入ってったらあかん沼や…」ということです( ;∀;)
参考文献(宇治山田合戦について知りたい人にオススメ)
『伊勢市史』
岡野友彦『中世伊勢神宮の信仰と社会』
■「三方」の地域の具体的な場所は…?
第57話において「どこからどこまでが山田と呼ばれた地域なのかはっきりせず研究者が議論していた」という文意のことを書きましたが、申し訳ありません。誤解を招く文章でした。「山田」についてではなく、山田「三方」の具体的な場所について議論になっていたのです。なので今回は訂正の意味もこめて「三方」について説明します;
三方は山田十二郷の三つの地域をさします。
まずは慶長十年時点の「山田十二郷」を列挙します。
・上之郷(中嶋・辻久留・ニ俣・浦口の四郷)
・上中之郷
・下中之郷
・八日市場
・曽祢
・一之木大世古
・久保一志
・宮後西河原
・田中中世古
・前野 下馬所
・岩淵岡本
・舟江河崎
以上が17世紀初めの時点でわかっている「十二郷」です。しかし、これが中世でもあてはまるのかは不明なんだとか。
で、研究者の方々が議論していたのは三つの地域についてなんです。山田十二郷のどの地域とどの地域が組み合わさって「三方」なのか? ということがよくわかっていなかったのです。
とりあえず現在定説になっている「三方」の比定位置について紹介しておきます↓
・坂方…八日市場の坂社を中心とした地域 今の図書館のすぐ近く!
・須原方…一之木郷の大社を中心とした地域 月夜見宮のすぐ近く!
(須原大社の鎮座する一之木説と一志久保などの隣接地域を中心とする説がある)
・岩淵方…岩淵郷の箕曲社を中心とした地域 宇治山田駅のすぐ近く!
■山田の屋敷売買 北畠具教も買っていた?
さきほどの写真を撮るために外宮周辺を歩いていたら気になる石碑を見つけました。
「御所世古」と刻まれた石碑があり、その側面に「鶯谷の北に当たり、北畠家ゆかりの住居があったとも言われる」との説明書きがあります。(「世古」とは伊勢の言葉で「せまい路地」「小さい通り」というような意味)
この辺りに北畠家の関係者の屋敷が山田にあったという伝承があって「御所世古」と呼ばれていたのでしょうか?
北畠の本拠地である多気谷と山田は少し離れていますが、北畠は山田に土地を持っていた可能性???
中世の山田は屋敷売買が盛んだったらしく、なんと永禄年間「北畠具教」が山田二俣の屋敷を買い取った史料(小林秀「中世都市山田の形成とその特質─屋敷売券を手がかりに─」『都市をつなぐ』より)が残っているんです。(具教がなんのために買ったのか、そしてどのくらいの期間所有していたのかはわかりませんが。)
「御所世古」のある場所と「二俣」は別の場所なので、残念ながら伝承の裏付けにはならないんですけどね。でも、具教が山田の屋敷売買に関わっていたというのは、「伝承」に真実味をもたせてくれている感じがしてロマンがあっていいですね!
わかりやすい地図がネットにありましたよ↓ 御所世古の位置や御師の屋敷などがわかります。
http://www.pref.mie.lg.jp/common/content/000070582.pdf
おそらく江戸~明治初頭の町の様子を反映した地図だとは思いますが、戦国時代を舞台にした創作でも参考になるのではないでしょうか?
▲追記▲
『正続神都百物語』p80によると、北畠没落後に落ち延びた一族が移り住み、そこを「御所の世古」と言うようになったそうです。断定はできませんが、写真で紹介した「御所世古」のことかもしれません。 具教の屋敷売買とは関係なさそうですね(´・ω・`)
■で、山田三方は信長の味方だったの?敵だったの?
我々なろう歴史ジャンルの住民にとって気になるのはそこじゃないでしょうか?
永禄十二年の伊勢攻めの際、信長は朝熊三村に対して禁制を出して安全を保障しています。山田ではなく朝熊の話ではありますが、信長は伊勢神宮領と交渉していたことがうかがえますね。(『伊勢市史 近世編』参考)
また、永禄十二年六月に「山田三方」が北畠に軍事的に反抗したと伝える文献もあります。
野呂家に伝わるという『本朝諸家勲功記』によると、永禄十二年、志摩の国衆たちが信長に通じて北畠に背き、二見浦に攻めてきました。具教は配下の野呂越前守を大将として派遣しました。この時多くの野呂一族が出兵しています。
六月十八日、二見の汐合で合戦になりました(汐合合戦)。この戦いは当初、国司勢(野呂一族)が優勢でしたが、「山田三方ノ神官等ハ内々国司家ヲソムキ」背後から国司勢を攻撃したのです。そして形勢は一変、国司勢は敗北。野呂越前守はこの合戦で負傷し命を落としました。
『本朝諸家勲功記』によれば、信長の伊勢攻めの時、山田三方は織田側に味方したということでしょう。
(参考:三井孝司「伊勢神宮と織豊政権ー式年遷宮造替費用をめぐる動きからー」『近世の伊勢神宮と地域社会』所収
野呂昭廣『一族の誌(東海三県の野呂家)』)
(野呂家の系図によれば、この時、「山田の住人白米大夫羽根某」という人物が負傷した野呂越前守を館で介抱したというのです。私が調べてみたかぎりでは「白米大夫」は山田の御師のはずですが……。山田三方は国司勢である野呂氏を攻撃したのになぜ?
この白米大夫のエピソードは野呂家の家伝ですが、気になります。組織としては対立しても個人同士ではやはり人の情というものがあったのでしょうか?)
さて、伊勢攻め以降の山田三方と信長の関係はどうだったのか?
信長に敵対したという史料はありませんし、信長は遷宮に協力的だったので、まあ、山田三方という組織としてはとくに反信長ではなかったと思います。
のちに北畠家を継いだ信雄が神宮領に対して圧力をかけますが、その後すぐに信雄は山田三方に宮川橋賃を寄進したり、宇治六郷に徳政免除したりと、なんか、やさしくなります。「やっぱり神宮サイドとは仲良くしとこっ☆」と判断したのでしょうか?
しかし、数年後の天正11年〜12年頃、信雄は神領をめぐって外宮の禰宜と少しもめたみたいで、外宮の禰宜は朝廷に訴えました。
おそらく、信長存命中は信雄と神宮側(神主たちや山田三方)との関係はまぁまぁ良好だったと思うのですが(天正9年の外宮仮殿遷宮は信雄が立願人となって執行してますし)……、本能寺の変後、信雄は北畠家臣だけでなく織田の旧臣も抱えることになり体制に変化があり、それに伴い、神宮側ともめる結果になったのかもしれません……(あくまで想像ですが)
それともう一つ考えられるのは、信雄はこの時期に検地を徹底的にしていたため、神領のことでもめてしまったのかも……
★山田三方と式年遷宮の復活★
遷宮の復活はとかく信長の功績が強調されがちですが、それだけでなく山田三方の頑張りもあったんです。
彼らのコネクションと資金調達能力のおかげでもあるんですね。
そもそも信長の寄進は山田三方の上部大夫(と周養上人)のはたらきかけがあったからですし。
ていうか、山田三方だけでなく、遷宮の復活は宇治や大湊などの神宮周辺の人々皆の悲願だったようです。
■江戸時代、山田は海上軍事の拠点だった!
徳川政権下の江戸時代──1630年代から山田奉行は船手役を兼ねていて、70人の水主同心が所属していました。これは江戸船手、大坂船手に次ぐ規模なんだとか。山田が日本で三番目の海上軍事拠点だと??
実は、戦国時代以前も山田は海上勢力としての性格をもっていたのです。山田は宮川と勢田川の間にあり、その二つの川は大湊へ、そして海へとつながっているのです。(参考:小川雄『徳川権力と海上軍事』『水軍と海賊の戦国史』)
山田は海上軍事の面でも重要な位置にあるんですね。
南北朝の時代、北畠親房はなぜ伊勢を選んだのか?という話にもつながってくるのでないかと思います。
親房が伊勢に来て外宮の神官の援助を受け、そして後に『神皇正統記』を著したのはよく知られていると思います。どうして外宮の神官に頼ったのでしょうか?
単に伊勢に滞在中に世話になりたかっただけではなく、古くから海上交通に関わってきた神官たちに東国への海の道の案内人になってもらいたかったのでしょう。
(参考:岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』)
■北畠との和睦後に信長がみた景色
『信長公記』『勢州軍記』には北畠との和睦後に信長は両宮、朝熊山を参拝したことが記されています。
朝熊山の中腹で撮った写真を見て信長気分を味わってください。
山田の町と伊勢湾が一望できる朝熊山。山田と大湊は意外とすぐ近く、目と鼻の先であるのを実感できます。
左手には山田の町、そして右手の方に目を向けていくと山田と大湊をつなぐターミナルの河崎、勢田川、宇治から続く五十鈴川、そしてこの二つの川の水が合流するハブ空港とも言える大湊、その先には伊勢湾が、知多半島が浮かび上がっています。
この景色を見た時、信長は何を思ったのでしょう。
山田、そしてそこに川でつながっている伊勢湾は経済的に見ても軍事的に見ても魅力があるところだったのではないでしょうか?
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★伊勢を知りたいあなたにオススメの本★
これを言っちゃぁ「この連載の意味は……?」て話になるけど、私みたいなド素人が書いたものよりも研究者の先生方が書いたものを読んだ方がいいと思うのよ(*´Д`)
というわけで、最後にオススメの本を紹介します。伊勢北畠や戦国時代の伊勢国について知りたい!という方のために。
①「久我家と北畠家の関係を知りたい!」 そこんとこ知りたいあなたには……
岡野友彦『戦国貴族の生き残り戦略』
久我家にスポットをあてていますが、伊勢の北畠家や長野家との関係も知れる本。名門の名の上にあぐらかいていたわけじゃないのよ。
②「中世の伊勢神宮のことが知りたいんだけど……?」 そんなあなたには……
岡野友彦『中世伊勢神宮の信仰と社会』
わかりやすい文章で中世の伊勢についてまとめていらっしゃいます。。北畠氏との関係、度会氏と荒木田氏の関係、宇治山田合戦、室町殿の御参宮、伊勢の製塩業、神仏習合と伊勢神道、式年遷宮の中断と復活、延徳密奏事件についてなどなど。
③「九鬼氏と志摩の国衆や北畠信雄との関係知りたいんだけど?」 そんなあなたには…
小川雄『徳川権力と海上軍事』
題名の通り徳川関係がメインだけど、九鬼氏のことも論じられていて、北畠信雄との関係性を知ることができます。信雄、頑張ってた。
それと九鬼氏や大湊については、山内譲『豊臣水軍興亡史』もオススメです。
④「室町幕府と伊勢北畠氏の関係が知りたい!」 そんなあなたには……
大薮海『室町幕府と地域権力』
北畠がいかにして幕府の下で南伊勢の支配を強めていったのか?そして興福寺東門院と伊勢北畠の関係は? 勉強になります。
⑤「大河内御所や坂内御所のこと知りたいんだけど?」 そんなあなたには……
藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』
北畠一族衆「御所」たちの領域支配について。星合系図の誤りについても指摘しています。
織豊時代の北畠についても書かれていますよ。そして小牧長久手の時の木造氏の奮戦ぶりも知れる本です。
いつも素人の私が書いたものを読んでくださりありがとうございます。
付け焼刃の知識で書いているのでうっかりミスや勘違いが多く、申し訳ないです。