星合系図と堤源助の宿のことについて~訂正です~
前回のあとがきで次は「山田三方」について書くと予告しましたが、すみません、先に訂正させてください。
まず第61話「北畠具房の人生についてちょっとまとめてみました」の後半部分において紹介した大河内御所のことについて、訂正があります。
星合系図にもとづいて大河内頼房(親泰)や坂内具祐の経歴について紹介しましたが、史料と照らし合わせると星合系図は間違いがあるそうです。
頼房と具祐は系図では父子とされていますが、本当は兄弟である可能性が高いそうです。この二人が父子だったのかという疑問は斎藤拙堂も『伊勢国司記略』で少し触れているんですよね。(国立国会図書館デジタルコレクションで読めます)
また二人が「星合」を名乗った事実は確認できないのだとか。そもそも「星合氏」という北畠一族はいたのか……?という疑問もあるそうです。
系図を鵜呑みにして紹介してしまったことお詫びします。
参考「星合氏の概略」https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/Q_A/detail.asp?record=121
▲追記▲
後で勉強して知ったことなのですが、星合具泰は北畠一族の坂内亀寿と同一人物だと考える研究者の先生がいました!
なぜ、複雑な星合系図ができたのかということも考察しておられるので興味がおありの方はぜひお読みください↓
『三雲町史』(2003年)第1巻p257〜265 (「星合氏の系譜考」)
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次に第46話「信長はなぜ堤源助の宿に泊まったのだろう」の訂正について。
『勢州軍記』の著者・神戸良政が後に編纂した『伊勢記』の
「此日信長至山田出桂瀬山陣到山田宿堤刑部大夫館 信長御師上部越中大夫也 其館依挟也 堤大夫者国師御師也」
という記述を紹介し、
「この日、信長は桂瀬山の陣を出て山田に着いた。山田では堤刑部大夫の館に泊まった。
信長の御師は上部大夫である。上部の館より挟んだところにある。堤大夫は国司の御師だ」と訳しましたが、誤りかもしれません。
「かもしれません」というのは、ちょっと、私自身判断がつかないのです。
もしかしたら
「其館依挟也」の「挟」が、けものへんの「狭」(せまい)なのかもしれないともう一度読み返して気づいたのです。
でも、何度見ても、てへんの「挟」(はさむ)なのか、けものへんの「狭」(せまい)なのか判断できない!
しかし、もし、けものへんの「狭」だったとしたら、意味がわかりやすくなり、なぜ信長が堤源助の宿に泊まったのか理由もわかるのです。
「狭」(せまい)という字だった場合、
「信長の御師は上部越中大夫なり。その館せまきに依るなり。堤大夫は国司の御師なり」
(信長の御師は上部大夫であるが、屋敷がせまかったために国司の御師である堤大夫の屋敷に泊まった)
という意味になり、自然な文章であり著者神戸良政は信長が堤大夫の宿に泊まった理由を教えてくれていることになるのです。 文字の判別ができないために断定はできないのですが、皆さまにご報告いたします。
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ただ、それでも新たな疑問がわいてきます。
永禄十二年当時、上部大夫の屋敷はそんなにせまかったのだろうか? という疑問です。
江戸時代に描かれた「山田惣絵図」を見ると、上部大夫の屋敷は堤大夫の屋敷より広く見えるのです。信長一行が泊まれないほどだったのだろうか……?
考えられることは永禄十二年以降に上部大夫が引っ越しあるいは増築した可能性。中世の山田は屋敷売買が盛んだったらしいのでその可能性はアリだと思っています。
それからもうひとつ疑問。なぜ北畠の御師の堤大夫をチョイスしたのか……?
「信長さん、参宮するんだったらウチの御師ん家に泊まっていったら?」という具教・具房父子の厚意だったのか?
それとも……、
信長「そちらの御師、借りるよ?(戦の勝者は俺だよ?)」
具教・具房「……ぐぬぬ」
ということだったのか?……
それとも、檀那は御師が誰を泊まらせようと気にしなかったのか?
はたまた、『みもすそ』で紹介されていたように、上部大夫は堤大夫の門内に居候していて、その居候スペースがせまかったからなのか?
疑問と妄想が止まりません。
とはいえ、『伊勢記』は江戸時代初期に書かれた物ですので、信ぴょう性はわかりません。そもそも信長が堤源助の宿に泊まったというのも事実かどうかわかりません。
次回は「山田三方」について書きます。




