北畠具房の人生に関することをちょっとまとめてみました
この世界のどこかにいるかもしれない北畠具房ファンに捧ぐ
■誕生
天文十六年 具房誕生に関するものと思われる史料
沢氏古文書に「天文拾六年未丁五月九日」の日付が入った「北畠氏子息誕生祝儀注文案」があります。
また、大湊古文書にも子息誕生のお祝いに関するものがあります。↓
大湊古文書
浜七郷書状
乍恐令啓上候、仍 御方様御誕生為御祝儀、御本所様并大御所様以書状申上候、其外何へも、以目録御棰共進上候、可然様御取合奉頼候、将又御私へ御棰壱荷・長蚫二百本・同百疋進入候、委曲吉田甚衛門可申上候由、能々可得御意候、恐惶謹言
五月一日 浜七郷
謹上 鳥屋尾左京亮殿 人々御中
おそらく、この時生まれたのが具房であろうと。
「御本所様」=具教
「大御所様」=晴具(天祐)
「五月一日」とあるから、具房は四月生まれなんでしょうか?
■叙爵
天文二十四年七月一日 従五位下叙爵、同日任侍従。(歴名土代より)
この時、具房九歳。ずいぶんと若い。しかし、祖父晴具は八歳で、父具教は十歳で叙爵なので、特別早いというわけではなさそうですね。
■左少将
弘治三年八月二日、左少将(歴名土代より)
■元服
永禄元年(弘治四年)四月 神宮年代記抄(松木)に
「十八日 国司参宮」
「十九日 御方元服」
と、あります。
「御方」というのが、北畠のプリンス具房であったろうと思われます。
伊勢神宮で元服式をしたようですね。
■家督を継ぐ
永禄五年三月に具房発給の安堵状が残っています。つまり、この頃に具房は家督を継いだということです。十五歳くらいでしょうか?
■北畠の当主、御本所として色々政務をこなす
永禄五年~天正三年の間、具房の安堵状などの発給文書が残っています。
ただ、具房と同時期に父具教の奉行人奉書もあるのです。二元政治だったのかな??
「具房は愚かだったから父具教が実権を握っていた」という話をネットでは見かけます。
しかし、「徳政免除の件については御本所(具房)に申し上げておきます」という文意の父具教の奉行人奉書があります。つまり、それが形式的であったとしても、あくまで御本所である具房の許可が必要であったのです。(参考 稲本紀昭「北畠氏発給文書の基礎的研究(下)」)
「父具教が実権を握っていた」というのは、断定できないんじゃないかな?と思います。
発給文書を見ると、「あれ、具房、普通に仕事してる……」という感想を抱きます。そんなに言うほど無能だったわけじゃないのでは……?
■具房は鉄炮に興味があった?
具房の仕事ぶりがうかがえる史料を紹介しましょう。
どうやら、具房は鉄炮に興味があったようなのです。↓
三重県史資料編中世3上巻p453
北畠奉行人奉書
先度被進之候鉄炮之鋳形之事、被仰出候處、早々持被進之候、御悦喜候、猶以鳥屋尾石見守被仰出候由所候也、恐々謹言
卯月十四日 房兼(花押)
榎倉とのへ
具房の奉行人兼房が山田の御師榎倉に宛てたものです。この史料について山田近辺で鉄炮を製造していた可能性が指摘されています。
剣豪の息子具房の史料に鉄炮に関するものがあるのは面白いですね。そして、これは具房が軍事的な政策にも積極的に関わっていたとも言える史料ではないでしょうか?
■中将になったのはいつか
公卿補任に中将に昇進した記録はないのですが、当時の書状、また三内口決などに具房を北畠中将と記されていること、信長公記にも北畠中将とあることから、具房が中将であると認識されていたのは確かです。
しかし時期がはっきりしない。
永禄十年、差出人具教の「北畠少将」宛ての書状があるので、この時点ではまだ中将ではありません。これより後に中将になったのでしょう。
勢州軍記では天正三年に信長が具房を「左中将」に任じて隠居させたとあります。これが事実なのかどうかは不明です。そもそも信長に任命権があったのでしょうか?
■具房の妻……?
具房の正室は誰なのか?
『一志町史上巻』に掲載されていた波瀬城主の系図を見ると「波瀬蔵人具祐」の姪にあたる女性に「女子 北畠具房北」がいます。具房の正室でしょうか?
この波瀬家は北畠の一族なのですが、よくわからないことが多い……。「波瀬御所」は軍記物以外の史料がなく、実態がよくわからないのです。
系図の信ぴょう性もよくわからないし、具房の妻に関する史料が他になく確証は持てません。
系図にある「女子 北畠具房北」という女性は具房と混同されている坂内具信の妻である可能性もありますし。ていうか、世代的に見たら坂内具信の妻であると考えた方が自然。
★「伝承」の具房の妻
三瀬の変の時に逃げ延びて後に秋田に移り住んだという北畠昌教という人物の伝承があります。この昌教の母が具房の妻だったと伝わるらしいのですが……いかんせん史料がありません。しかも、具房ではなく具教の側室だという話もあり判然としません。あくまで伝承ということで。
(Wikipediaでは「昌教の名は北畠氏の系図で確認できる」としていますが、どの系図にあるかわかりません。私が調べた限りではそのような系図がない。)
※北畠昌教については『鹿角人物事典』(PDFで閲覧できます)をご覧ください。昌教母のことに言及はありませんが。
昌教は「北畠氏学講座」に名前を使われてしまったがためにwikiで「実在は疑わしい」とか「自称」とか書かれて気の毒です。鹿角の大切な伝承なのに。
★北畠政成の妹について
Wikipediaをはじめ、ネット上では北畠政成の妹が北畠具房の正室だという話があります。が、そのような史料・資料は私が探したかぎり見つかりません。
どうもこの情報の発端は「北畠氏学講座」というサイトなのではないかと疑っております。
北畠氏学講座の「創作」が2000年代にネット上で広まってしまったのだと思います。
ネットでは北畠政成は北畠政勝の息子であるとされていますが、政勝は文明年間に活躍した人なんです。
(近年、小林秀氏の研究によって文明年間の史料に見られる「政勝」とは北畠政郷と同一人物であることが明らかにされました。)
政勝の娘(政成の妹)が北畠具房の妻だというのは年代的に無理があるのではないのかと思います。ましてや具房の子を産んだというのは年齢のことを考えると可能性が低い。かなりの高齢出産になるのではないかと……。
ただ、幕末に編纂された『系図纂要』では政成は具教の又従兄弟になっています。この系図に従えば文明年間に活躍した「政勝」と政成の父政勝は別人ということになります。
(系図纂要の通り政成が具教の又従兄弟だったとしても妹が具房の妻というのは世代的に無理があるような…?)
しかし、幕末の学者斎藤拙堂は政成の父は歴名土代に記録されている「北畠政能」ではないか?と考察しています。この政能という人も史料がなくよくわからないのです。ちなみに『系図纂要』では政能は政成の祖父になっています。
(※政能については、赤坂恒明氏「天正四年の『堂上次第』について─特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に─」で論じられており、政能は木造庶子なんだそうです。拙堂の考察も系図纂要も外れていますね(・・;)
……うーむ。政成に関することは史料がなく何とも言えないですね。『系図纂要』の編纂者も推測で政成を具教の又従兄弟に比定したのではないかな、と。
★鈴木家重の娘……?
これもまたネット上の話ですが。
ネット上では具房の正室は鈴木家重の娘であるという情報を見かけます。
鈴木家重というと……
『北畠御所討死法名』に北畠家臣であろう「鈴木家重」の名があります。
そして「鈴木氏小弁水照院妙見大姉」という女性もいます。
この女性は「具房ノ内室則具家母公」と記されています。
が、『北畠御所討死法名』においては「坂内具信」の名が先代具祐の別名と混同されて「具房」とされています。よって鈴木氏の娘は具房の室ではなく坂内具信の室であるのだと思います。
『北畠御所討死法名』の記述がもとになってネット上で北畠具房の室は鈴木家重の娘だという話が出回ったんじゃないのかな?
おそらく、「鈴木氏小弁水照院妙見大姉」が生んだという「具家」が美杉町にある北畠神社の創建に関わったという伝承の鈴木家次の父か祖父だと思うのですが……、
美杉村の伝承をまとめた本『美杉村のはなし』では鈴木氏の娘は坂内具信の妻ではなく具教の内室とされています。坂内具信でもなく北畠具房でもなく具教の内室なんです……。もう、よくわかりません。
ちなみに平成五年発行の『三重県神社誌』によると鈴木家次は「坂内兵庫頭具政」の子孫になっています。
まあ、でも、鈴木家次が坂内家の子孫でも具教の子孫でも、どちらであっても北畠の子孫であることには変わりありません。
坂内家は家柄だけ見たら北畠の庶流ですが、五代目の具祐(又の名を具房、具種)は国司家の子息です。ですから、坂内家の末裔は血筋的に見たら正統な北畠の末裔と言っていいと思います。
北畠神社の由来書では鈴木家次は「北畠具房四代孫」とされています。(『三重県神社誌』の見解とは違いますが、伝承とはそもそも曖昧なもの)
由来書の「北畠具房」が「坂内具祐(具房)」だとすれば、つじつまが合いますし。坂内具祐(具房)→具信→具家→家次 四代ですね。
★具房の娘がいた…?
柏原藩の家譜によると、元は加賀衆の中山正就に具房の娘が嫁いでいます。この結婚は信雄の命によるものだとか。
おそらく、信雄が改易された際、この結婚話がもちあがったのでしょう(あくまで想像ですが)。というのも、信雄の側室久保氏女(高長母)は中山正就と親戚関係にあったらしいのです。その縁があったからなのかはわかりませんが、側室久保氏の父は信雄改易後、前田家に仕えました。久保氏の子・高長も後に前田家に仕えます。
こういった縁があったので、信雄は具房の娘と正就を結婚させたのでは…?
しかし、残念ながら中山正就に嫁いだ娘の母は誰なのかは不明です。
★結局、具房の妻は誰なの?
長々と話しましたが、具房の妻については「不明」としか言えません;
■永禄十二年、織田と戦
この頃、北畠の領国内で反乱が相次いでいます。具房が鎮圧のために直々に出陣したかは不明ですが、若き当主具房は苦労が多かったのではないでしょうか?
内乱状態が続いているところに長野氏も参戦、そして好機とばかりに織田が大軍で攻めてきたのです。(稲本紀昭「北畠国永『年代和歌抄』を読む」より)
■元亀元年四月頃、具房上洛か?
神戸能房が編纂した『伊勢記』によると、四月十四日、室町殿で信長や家康と一緒に具房は能を見物したそうです。『信長公記』にも「北畠中将卿」とありますので、具房は信長の招集に応じたのでしょう。
織田との和睦後も具房は当主として活動していたと考えられます。
■元亀二年妹を養女にし、養子信雄と結婚させる
■曽原城鎮圧
勢州軍記によるとこの時具房自身も出陣しています。
■三条西実枝から有職故実書『三内口決』をもらう
■天正四年、三瀬の変
具房の発給文書は天正三年で途絶えています。この頃、信雄が家督を継ぎました。つまり具房は隠居して政務に関わらなくなったためでしょう。
しかし、父具教は信雄が家督を継いだ後の天正四年五月にも奉行人奉書があります。具教は信雄に対抗し分国支配に影響力を持ち続けたい意図があったのでしょう。また信雄が家督を継いでから間もなく、天正三年の多聞院日記に「国司」が大和に入ったという風聞が記されています。この「国司」が具教のことだとしたら…
反乱分子である大和宇陀郡の沢氏、秋山氏と具教が合流したという噂があったのでしょうか? そんな噂が流れるほど具教VS信雄という認識が当時の人々にはあって、バチバチな状態だったのかもしれませんね。(参考:小川雄「織田権力と北畠信雄」)
そして、天正四年十一月二十五日、三瀬の変が起きるのです。
具房は助命されました。
なぜ?
小川雄氏によると推測できることは、
・信雄が家督を相続した後の具教の発給文書に具房および具房の奉行人が関わっていないことから、具房は具教の動向について知らなかったのでは?と考えられること。
・具教を殺害した信雄が北畠当主の正当性を維持するためには養父であり前当主である具房の生存は不可欠であったのではないか?ということ。(参考 小川雄「織田権力と北畠信雄」)
他にも理由はあるかもしれません。案外、具房と信雄は仲が良かったとか、妹千代御前の嘆願があったからとか、史料には残っていない理由があるのかもしれませんね。本当のところはわかりません。
■具房の死
天正八年、正月五日、具房は亡くなります。
幕末の学者斎藤拙堂が著した『伊勢国司記略』にある具房の死にまつわる論考を見てみましょう。割註は()内に記す。
「三介殿の養父たるを以て御命ばかり助け参らせ、瀧川一益に預けられ、(北畠物語 兵乱記)河内といふ所に三とせがほどおしこめられ給ひければ、権少将国永より歌よみて吊ひ奉る内に、
たらちめはさこそ出よとおほすらめ河内に君か三とせさすらふ
その後ゆるされて入道し給ひ、天正八年正月五日に空しくなり給ふ。松壑林公と諡す。御年三十四とぞ聞えし。(羽林咏草)
按ずるに、兵家茶話に、信雄卿尾州へ移り給ふ時、具房をも迎へとり養はる。其後信雄さすらへの身となりければ、具房尾州を出で京へ上り、秀吉公の恩顧を蒙り静にくらされける。其頃の歌に、
うれしさのありとや人の思ふらんうきをうきともなけかれぬ身は
終に京にて失せ給ひ、蘆山寺に葬り高照院を申すとあり。羽林咏草と合はぬことあれど、是も虚説にはあらじ、参考に備ふべし。うれしさの歌あはれにことわりに聞ゆ。」
>たらちめはさこそ出よとおほすらめ河内に君か三とせさすらふ
これは天正七年、北畠一族の北畠国永が詠んだ歌です。『羽林咏草』に記されています。
実はこれ、具房に関する同時代の史料であり、そして、具房母が三瀬の変の後も生存していることを示す貴重な証言なんです。
『羽林咏草』より一部抜粋
「天正七年正月一日春たつといふ事を神仏によせて、具房卿囚人と成給ひ、河内といふ所へ越まし\/すてに三年をへられての初春せめて事に祝し奉る五首
たらちめはさこそ出よとおほすらめ河内に君か三とせさすらふ」
「たらちめ」=お母さん
「お母様が出てきてほしいとおっしゃっていることでしょう。貴方が河内に幽閉されてもう三年になります」←三瀬の変によって具房が長嶋河内に幽閉されてから三年経っているんですね。母の気持ちを思うとつらい。
★『羽林咏草』とは★
北畠一族の小原(北畠)国永の歌集。天文~天正年間の南伊勢の動向がわかる史料でもある。詳しくは稲本紀昭氏「北畠国永『年代和歌抄』を読む」をご覧ください。
そして具房が京都で暮らし、そこで亡くなり蘆山寺に葬られたという『兵家茶話』の記述について拙堂はこう言っています↓
>羽林咏草と合はぬことあれど、是も虚説にはあらじ、参考に備ふべし。
「羽林咏草とつじつまが合わないところもあるが、全くの嘘とは言えないから参考までに載せておく」
具房の最期の場所はどこだったのか? はっきりとはわかりません。京都で亡くなったというのはあくまで「伝承」であるとした方がいいでしょう。
吉井功兒『伊勢北畠氏家督の消長』も
「具房は桑名長島で幽閉されて、1580年(天正八年)に京都で没したとの伝承があるが、定かではない。」と述べています。
また、「蘆山寺に葬り高照院を申す」という話は、誤伝なんじゃないかな、と。
高照院は中院親顕(具房養子)の法名であり、廬山寺は中院家の菩提寺であることから生じた誤伝であろうと思います。
>うれしさのありとや人の思ふらんうきをうきともなけかれぬ身は
具房が詠んだと伝わる歌でしょうか?
「嬉しいことはあるのかと人は思うでしょう。悲しいことを悲しいと嘆くこともできない私」
せつない歌ですね。
「うれしさの歌あはれにことわりに聞ゆ。」と拙堂も言っていますね。
具房はどうしようもできず、ただ世の移り変わりを眺めることしかできなかったのでしょう。具房の死因は不明ですが、おそらく、具房はこの歌を詠んだ頃には病気がちで自らの命が長くないことを悟っていたのでは?
具房は歌を詠むのが好きだったんでしょうかね? 具房が詠んだ歌はそんなに残っていないけれど、三条西実枝と交流があったみたいですし。
せっかくなので羽林咏草におさめられている元亀三年に具房が詠んだ歌を紹介しましょう。
羽林咏草
「三月すゑつかた残花をよミ給ふとて 中将具房
一枝にのこりし花よ中々に春ふく風の名たて成らむ」
北畠国永は具房から「あなたも詠んでよ」と言われたようで、国永の歌も記されています↓
「 しきりによミ侍るへきよしの給ひけれは
青葉まて風によきて残るらむ君のかさしの軒の一枝」
二人が歌を詠んだのは元亀三年ということは織田との和睦から数年経ち、信雄と千代御前を結婚させた後ですね。そう思うとなんだか意味深な歌のようにも思えます。
深読みしすぎと言われるかもしれませんが、せつない歌じゃありませんか?
私なりに具房の歌を訳してみると(自信ないけど)、
「一枝に残った花がかえって春風の良さを際立たせるだろう」
(…合ってるかな? うーん。正解かわからん(;´д`)古文得意な人助けて)
一枝に残った花……。織田に飲み込まれつつある北畠の家運を儚んでいるような……、北畠が生き残る道を模索しているような……
■具房の法名について
具房の法名とされる「圓徳院通山満浦居士」は斎藤拙堂も指摘しているように坂内具信の法名であり、具房の法名は「松壑林公」だと思います。
またWikipediaにある具房の官位「右近大夫将監」も坂内具信と混同していて誤りだと思います。
■具房の母の謎
具房の母、具教の妻は六角氏の女だとされています。
勢州軍記では「佐々木承禎女」と記されていますが、系図纂要では「六角定頼」となっています。承禎の年齢のことを考えたら、定頼の娘である方が正しいでしょう。
先ほど紹介した具房母に関する記録は北畠国永が著した『羽林咏草』(『年代和歌抄』)にあります。
三瀬の変の後も、彼女は生存していて、勢州軍記においても生存している記事があります。
しかし、「具教の妻」だと思われる女性が『羽林咏草』に他にも何人か登場しているのです。
まずひとりは「六角母堂」という女性。
では、永禄九年の「六角母堂」に関する記述と歌を引用します↓
「六角母堂没 六角母堂遠行と聞て、龍女の年始八歳といふ事を
くるしみのうみをはなれて四の時、やかへりと説のりはたのもし」
永禄九年に亡くなった六角母堂とは誰なのか、具教妻・具房母なのか?
六角氏の女性であることは間違いないでしょう。この人は具教の妻、具房の母か? しかし、三瀬の変後も生存が確認できる具房母の記述とつじつまが合わない。
そして、「龍女」とは?
六角母堂の生んだ娘のことかと思ったのですが、小林孚氏(多藝国司史料ノート1500年代)の注釈によるとこれは仏教の説話にある「龍女成仏」「変成男子」のことなのだそうです。女性である六角母堂の成仏を願って「龍女」のことにたとえて歌を詠んだということでしょう。
それにしても、いったい六角母堂とは誰なんでしょう?
素人の私の予想(妄想)ですが、「六角母堂」とは具教正室の母、つまり具教にとっては姑にあたる女性ではないでしょうか?
そして二人目は「松月院」という女性。
『羽林咏草』永禄五年に
「中納言殿より秋のころ松月院とのヽ事によせて
妻思ふなみたはわれもをとししをひとりなくとやさをしかのこゑと侍れは」
とあります。
この年に亡くなったと思われる「松月院」とは具教の側室なのでしょうか?
旧美杉村に松月院跡があります。発掘調査が行われており立派な石垣遺構が確認されています。。この寺院は具教が妻のために建てたのでしょうか?
しかし、松月院跡に天文年間のものと思われる五輪塔があり、また小林孚氏によると松月院は「材親が父教具夫妻の為に建てたとの伝承がある」のだそうです。(←教具は材親の祖父のはずですが、誤って伝わったのかな?)
『羽林咏草』に詠まれている「松月院」はいったい誰なのか? そして旧美杉村にあった松月院を建てたのは誰なのか? わかりません。
ただ言えるのは具教が「松月院」という女性を深く愛していたということ、この女性と具房母は別人だということ。
『勢州軍記』に記されている具教が北の方以外の女性を愛したという話は真実味があるのではないでしょうか。
■悲報、俺たちの具房、ディスられる
群書類従所収の勢州四家記に
「サテ伊勢ノ国司ヲ御前方近江佐々木殿息女也。此腹ニ男子一人アリ。殊之外フトリタル人ニテ身ノハタラキモナラザルニツキ。フトリノ御所ト名ヅク。然モウツケニテマシマス。サレドモヲ茶筅ヲフトリ御所ノ妹聟ニシテ国司ヲユヅリタマヘバ。」
と書かれている……。
で、でも! 江戸時代に書かれたものだから! 同時代の史料に具房がウツケだとか馬鹿だとか書いてあるものはないのよ!!(涙目
とはいえ、こうして文献に書かれてしまっている事は受け入れねばなりません。
家を滅ぼしたものが後の世にて罵られるのは宿命なのです……。耐えましょう……。
(具房が「馬に乗れなかった」という言説がネットではまことしやかに語られていますが、私が調べたかぎりではそのような史料文献はありません。勢州軍記にもありませんね。私の探し方が悪いのか…。)
▲追記▲
具房が馬に乗れなかったという話の元ネタであろう文献がわかりました! 『足利季世記』に「大人ニテ馬モ五町乗スル事不叶サレハ」とありました!
■中院親顕について
具房の死後、同宗の中院通勝の次男・親顕が具房の養子になり北畠家を継ぎました。(『多藝録』では具房が慶長八年に亡くなったとしていますが、これは具房の生前に養子をとったと誤解し親顕の生まれた年に合わせたためだと思う)
親顕は慶長十二年、五歳で叙爵。
慶長十七年に元服し、従五位上。
寛永三年には正四位下参議になるも、寛永七年八月三日、二十八歳でなくなります。
これで、北畠家はついに途絶えることになるのです。
北畠家最後の当主は具房であるとも、信雄であるとも、親顕であるとも言われています。
以前の私は本能寺の変の後、信雄が織田に復姓し北畠は一度終わったのだと思っていましたが、近頃はそうとは言えないと思うようになりました。
あくまで素人の私の見方ですが……
信雄が織田に復姓した時期はハッキリとしていないのです。北畠をやめて織田に戻すと明確に宣言していないんですね。曖昧なんです。
もしかしたら、本能寺の変の後も信雄は北畠の名を存続させる方法を模索しつづけていたのではないかと…
しかし、改易や文禄慶長の役、関ヶ原合戦などでタイミングを逃してしまっていたのでしょう。
ようやく中院親顕が北畠の名を継ぎ、成長して昇進したのを見て、信雄は安心したのだと私は想像しています。
寛永七年四月、信雄は亡くなりましたが、北畠の名が続いていく未来を願っていたことでしょう。
その三ヶ月後に中院親顕は亡くなり、北畠は途絶えたのです…
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参考文献
稲本紀昭「北畠氏発給文書の基礎的研究(下)」「北畠国永『年代和歌抄』を読む」
小川雄「織田政権と北畠信雄」
『一志町史上巻』
斎藤拙堂『伊勢国司記略』
『三重県史通史編近世1』
『三重県史資料編 中世3』
小林孚「多藝国司史料ノート1500年代Ⅵ版」
『私家集大成』6巻、7巻
『三重県史叢書 北畠氏関係資料』
『南勢大河内城史 大河内合戦後満四百年記念』
吉井功兒『伊勢北畠氏家督の消長』
「星合氏の概略」https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/Q_A/detail.asp?record=121