神戸隠居の事
長島攻めのことを訳す前に、神戸友盛隠居のことを訳します。長島攻めに神戸家や関家の人たちも登場するので、両家の情勢について先に書いておいた方がいいかな、と。
ちょっと今回の訳は難しかったです。誤訳あったらごめんなさい( ;∀;)
信長卿は勢州の諸家を押さえ、養子を入れて治めた。
そのため、表面上は従っていたが、内面は織田を蔑ろにしていた。それぞれ自分の意に沿わない形で年月を送った。
とくに、神戸蔵人(友盛)は元々、関盛信の息子・勝蔵を養子にする約束をしていたのに違う形になってしまった。そのため、関家、神戸家の両家は三七丸をぞんざいに扱った。信長卿はこれに対し憤った。
時に元亀二年 辛未春正月、神戸夫婦が年始の挨拶のために近江の日野に入ると信長は捕まえて隠居させ、蒲生家に預けた。一度決めたことをぐずぐずと受け入れないとこのような結果になるのだ。
この時、神戸領を検地し、神戸侍の領地を減らし、尾張侍に与えた。そのために神戸侍120人が浪人になった。
またその後、高田孫右衛門尉に命じて神戸城において高岡城主山路弾正忠を誅伐した。彼の父・正幽は神戸楽三の婿だ。つまり弾正忠、その他の兄弟は楽三の孫ということになる。
弾正忠の舎弟、河木九之丞・山路弥右衛門尉兄弟も討手をその宿所に向けられた。しかし兄弟二人共敵中を突破することができたので、皆はこれを褒めたたえたという。
高岡城は小島兵部少輔(※)に与えられた。
その後、尾張侍と神戸侍は不仲になったが、神戸の与力・堀内、河西、同じく家老の本田、高田、村田、岡田、山路、高瀬以下、佐藤、佐々木、岡部、疋田、馬路、片岡、伊東、古市ら四百八十人は一味同心して三七丸を奉じた。彼らを神戸の四百八十人衆と呼んだという。
(※)小嶋兵部少輔は三七丸(信孝)の異父兄(異父弟とも)です。勢州軍記では「兵部」となっていますが、同時代に近い史料では「民部」と記されているらしいです。
▲脚注には「異母弟」とありましたが、おそらく誤植だと思います。
「神戸録」には「同母弟」とありました。
>関盛信の息子・勝蔵
鈴与姫(竹子)の元婚約者です。彼の読みは「かつぞう」なのか「しょうぞう」なのか?よくわかりません。
後に「十兵衛」と名乗っています。勢州軍記ではこの人の諱は「一利」としています。
この関十兵衛(勝蔵)は戦国人名辞典では「関盛吉」と同一人物とされていますが、私は「盛吉」と「一利」は別人じゃないの…?と思っています。
▲追記
「勝蔵」の読みについて
「かつくら」とふってある本(瀬川欣一著『蒲生家盛衰録』中巻 昭和57年発行)がありました。
「かつぞう」「しょうぞう」「かつくら」
どれが正解なの? もう何がなんだか????
>神戸夫婦
神戸友盛の妻は蒲生家の女です。妻の実家に挨拶に行ったときに軟禁されてしまったということでしょうか?
『伊勢記』ではこの時、友盛には僅かな人数の神戸侍が仕えるだけにし、そして信孝に神戸家の家督を継がせ友盛の娘竹子(九才)と結婚させ神戸平氏を称したとあります。
ちなみに長覚寺の北畠源氏系図によると友盛は天文十年生まれらしいです。けっこう若いのに隠居させられてしまったことになりますね。
瀬川欣一著『蒲生家盛衰録』中巻(昭和57年発行)p73によると、
「詳しいことは伝わっていないが『蒲生旧蹟考』には次のように友盛のことが書かれている。
蔵人屋舗
清源寺の北にあり。神戸蔵人太夫友盛、信長の気色にたがい日野に蟄居せしめらる。蒲生賢秀これを預かり別館を建てて居らしむ。幾ばくもせずして卒せり。村井上合谷に葬る。」
という記録があるそうです。
が、友盛は他の記録では本能寺の変の直前に許されて神戸に帰ってきて慶長五年まで生きていますので、誤伝であろうと思います。
しかし、誤伝だからといってバッサリとこの『蒲生旧蹟考』の記事すべてを切り捨てたくないですね、私は。
(友盛夫妻は日野城じゃなくて別のところに住んでたのかぁ、コロナ禍終わったら滋賀に旅行して「蔵人屋舗」跡を探してみようかな( *´艸`)
なんていう妄想ができて楽しいじゃないですか。
>山路弾正忠
Wikipediaその他ネットの情報を見るとこの時自害したとされていますが、出典がちょっとわからないです。「神戸録」には「(山路弾正を)誅す」とあって「自害」ではないんです。
うーん、また時間があるときに調べます。
ちなみにこの山路さんの兄弟は後に賤ケ岳の戦いで七本槍の一人に討たれた有名な人ですね。
▲追記
『伊勢軍記』に「又神戸信孝、山路弾正忠ニ腹ヲ切セラル」とありました!
>河木九之丞
脚注によるとこの人は後に加藤嘉明に仕えたとありますが、おそらく「福島正則に仕えた」の誤りだと思います。
山路正幽の息子に山路久之丞(長尾種常)という人がいて後に福島正則に長尾隼人正と名乗った人がいるので、多分この人のことでしょう。
>神戸の四百八十人衆
なんか、かっこいい呼び方ですね。
彼ら四百八十人衆は信孝に仕えますが、最後の最後に信孝と袂を分かつことになります。
参考文献
瀬川欣一著『蒲生家盛衰録』中巻
『鈴鹿関町史』
『鈴鹿市史』
衣斐賢譲『「神戸録」とその周辺」
※「神戸録」は幕末の学者沢熊山の著書です。