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「船を出せ」~大湊の抵抗~

前回の古文書の要約、ちょっと間違えていたので修正しています;

 第二次長島攻めの時、織田は大湊に船を出すように要求しました。信長の息子、信雄が大湊に命じる文書がのこっています。

 




北畠具豊書状 大湊文書

  なおなお掃部可申候

信長しゆいんを以被候儀、をのをの如在なく、其うけ可申候、さためて本所よりもかたく御申つけ可有、仍舟之儀事かたくくわなまて申可つく候、委細掃部可申候、恐々謹言

   九月廿日                

                具豊(花押)



この頃の信雄へ北畠具豊と名乗っています。まだ、北畠の家督を継いでいませんが、すでに大湊に命じる立場になっていました。ただし、この文書にある「さためて本所よりもかたく御申つけ可有」……

 「本所=御本所様、北畠当主・具房からも堅く命令が下されるでしょう」と言っていることからわかるように、この時の北畠と織田は協調路線にあったことがわかります。

 


 さて、九月二十日のこの命令によって大湊の船は桑名へと出航したようです。



 ところが、十日ほどして大湊衆は楠浦に船を置いて帰ってきてしまいます。(三艘の船で出航し、一艘は無断帰港、残り二艘を楠浦に置いてきた)


 

 帰っちゃったことについて織田も北畠も怒ります。「なんで帰ったんだ!もう一度出航しなさい!早く!」


 次の史料は十月十三日、北畠具房の奉行人房兼から大湊衆への書状です。具房公も困惑し怒っているのがわかります。


北畠具房奉行人奉書

  尚々御陣所へ罷着十日過候者、別人申付可遣候

就北表へ被遣候舟之儀、少々罷帰候由無是非候、於桑名浦九鬼申合、御方様御陣所へ一日茂早々御合点可被申候、此方不及御届罷帰候輩、各可被可成敗候、昨日如被仰出候、楠浦迄早舟遣則桑名迄可有着岸候、此刻御筈被合候様ニ馳走候者、別而可為忠節候、猶鳥石被仰含候由所也、恐々謹言

     十月十三日           房兼(花押)


かなり雑な要約→「早く信長の陣所へ船を出しなさい。早く行かないと信長の作戦が計画通りにいかなくなります。勝手に帰ってしまった者は成敗します。詳しいことは鳥屋尾石見に言ってあります。」

(※「御方様陣所」は具体的に誰なのかわかりませんが、とりあえず信長の陣所と訳しました)


そして同日・十三日の鳥屋尾石見守の書状です↓



鳥屋尾満栄書状  大湊文書

  御奉書慥可有御被見候

御注進之趣則致披露候、先度被仰付候以後于今桑名御陣所へ無参着候由無是非候、日数事も桑名へ参候て十日も過候ハヽ尤候歟、言悟(語)道断無是非次第たり候とて、以外御腹立たるへく候、昨日申入候様ニ以早船楠浦へ被相届候て、今明日中ニ桑名御陣所へ以津掃御届専一候、当方ニ曲事可出来候、此時其方へ帰候船をも重而渡海候て御届候ハヽ可為御忠節候、各不可有御油断候、恐々謹言

   十月十三日  鳥石 満 栄 (花押)


 大湊衆御中



 大湊衆がさっさと帰ってきてしまったこと、再びの出航を拒否していることは「言語道断」「以外御腹立ちたる」(以ての外のお腹立ち)であると、かなり厳しいことを鳥屋尾石見守は言っていますね。

 鳥屋尾石見守は昔から大湊衆と北畠家の連絡係、取次のような仕事をしていたらしく、この時も奔走していたのでしょう。



 このお怒りの書状でも大湊は動きませんでした。十月十六日になっても動かないので具房・具教父子も怒っています↓

 

北畠具教・具房奉行人連署状  大湊文書


湊舟之儀于今不出置候段、言語道断曲事候、此度御用ニ於相支者湊儀者堅可有御成敗候、油断無是非候、従鳥石許近々被申越候、各被申談即時ニ舟可被出候、猶方穂日向守・鳥屋尾与四郎被仰聞候由所候也、恐々謹言

  十月十六日       房兼(花押)

              教兼(花押)


    大湊

      老分中


「即時ニ」舟を出すように要求していますね。でも、大湊は動きません。




十月十九日になってもまだ動いていないことがわかる史料↓




鳥屋尾満栄書状  賜蘆文庫文書


日夜御会合無御疎略之通令存知候、雖然遅々段不可然候、彼舟之儀者先刻自我等も相届荷物無之候由被申候、急々板材木其外入可申道具船中江入被置、明日にも此船出シ申度候、舟主理之段者雖尤候、自信長殿被聞召届候て、態被成御使候間無了簡仕合共候、則々船之儀郷内へ被請候て、船頭上乗人数被相定、今夜之分ニ其主々へ御届専一候、今日々と申候へハ悉桑名表御筈者相違仕候、我等共もうつけに成候て乍存知逗留仕候やうに可被仰付候、彼是迷惑千万候、御分別候て御急奉憑候、恐々謹言

  十月十九日          満栄(花押)




 この書状から鳥屋尾石見守の心労が伝わります……。

「日夜御会合無御疎略之通令存知候……」……「大湊衆の皆さんが日夜話し合いをしていることはわかっていますが、遅くなるのはやめてください……」……

「我等共もうつけに成候て」……。早く船を出さないと、私たちまでも「うつけ者」と思われてしまう……。中間管理職の悲哀ですね( ;∀;)

 ところでこの文書、ちょっと気になる箇所があります。


 「材木其外入可申道具船中江入被置」


どうやら信長は船を作る材料と道具も持ってこさせ、大湊衆に現地で造船、修理をさせる作戦を考えていたようなのです。

 信長の当初の要求は物資・兵糧米の調達に加えて大湊衆も戦闘に参加させることだったらしく、大湊衆は戦闘に参加するのを嫌がったために帰り再出航を拒否したのだろうと。

 大湊衆は北畠に対しても戦闘参加の要求を拒絶したことがあります。

 天文年間、北畠氏vs長野氏の合戦がありましたが、大湊衆は戦闘参加を拒絶しました。

 商人として荷物の運搬などの協力はするが、自分たちは傭兵ではないというプライドがあったのかも。

 それに、前回お話したように大湊は桑名などと深いつながりがありましたから、直接の戦闘参加は拒絶感があったのかもしれません。


 さて、話を書状に戻しまして。

 当初は大湊衆に戦闘参加を望んでいたらしい信長ですが、数日のうちに作戦変更したのか、はたまた大湊の抵抗によって戦闘参加させることはあきらめたのか、造船・修理をすることを要求し始めたらしいんですね。大湊衆は造船の技術を持っていましたから。

 より多くの船で長島付近の河口を塞いで逃げられない状況にして攻撃をする考えだったのかもしれません。

 長島攻めのための船の徴発は大湊だけではなく伊勢湾岸の他の湊にも要求があったのだと考えられています。信長の影響下にある伊勢湾岸のすべての将、湊の人員を使った総力戦にする意気込みだったのでしょう。それほど長島一向一揆は手ごわい相手だったんですね。



 さて、この大湊衆の抵抗の結末はどうなったのか。

 それをはっきりと示す史料はありません。

 しかし、二十四日になっても大湊衆が材木等を用意していないことを叱責する書状がのこっており、また『信長公記』によれば信長は「二十五日」に撤退しています。

 『信長公記』を信じるならば、第二次長島攻めにおいて大湊衆は最後まで抵抗を続けていたことになります。




 第二次長島攻めでは大湊衆は信長の要求に抵抗しましたが、第三次長島攻めでは(確かな史料はないのですが)どうやら船を出したみたいです。

 これは若き信雄の初陣でもありました。その話はまた今度。



 


 

     

私の古文書の要約はテキトーなので、あんまり信用しないでくださいね(*´Д`)

また、研究者の方々の著作等を読んで私なりにまとめていますが、私のバイアスかかっていたり勘違いしている部分もあるかもしれません。


もっと詳しいことが知りたい方は前回載せた参考文献をお読みになってください(*'ω'*)


伊藤裕偉・藤田達生 中世都市研究会『都市をつなぐ』


伊藤裕偉『中世伊勢湾岸の湊津と地域構造』


小島廣次「伊勢大湊と織田政権」


稲本紀昭「織田信長と長島一揆」


柴辻俊六『織田政権の形成と地域支配』


小川雄「織田権力と北畠信雄」


『伊勢市史 中世編二』


『伊勢市史 近世編一』


『三重県史資料編

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