信長お怒り~大湊衆の抵抗~
更新遅くなってすみません(;´д`)
前回、日根野氏の足弱(女や子供)を大湊の船が逃がしたことについて信長が激怒していて、「舟主」を許さないから逃がさないようにしろ、という内容の手紙を紹介しました。
この「舟主」(オーナー)は、山田の御師・福島大夫であったのだろうと考えられており、そして福島大夫が何らかの処罰を受けた形跡がないことをお話ししました。
大湊は伊勢神宮の外港として栄えました。そして古くから畿内と東国をつなぐ太平洋海運において重要な位置にあったのです。しかし、大湊が伊勢の経済の中心地だったかというと、どうでしょう?
大湊の船の舟主には山田の御師たちがいたのだろうと考えられています。パッと見ただけでは、山田は内陸部にあって、海と繋がりがあったような感覚がわいてこないかもしれませんが、こちらの地図をご覧ください。
川です。川でつながっています。
宮川、勢田川、五十鈴川の河口にある小島が大湊だったのです。
時代によって水位は変わっていったと思いますが、川の水が深い時代には彼らは頻繁に船で行き来をしていたことでしょう。(うまくイメージできない方は「伊勢河崎商人館」のサイトをご覧ください。川は荷物を運ぶのに便利です)
▲追記▲
最近の研究では十五世紀前期まで「大湊」は二つあったという説があります。
現在の伊勢市大湊町に位置する(掲載している地図の大湊)「大湊」。
そしてもうひとつ、二見にも「大湊」があったのです。
伊勢神宮の外港は、内宮の港である「大湊」(二見)、外宮の港である「大湊」(現在の伊勢市大湊町)。内宮外宮それぞれに港があったと考えられるのです。
十五世紀後半にはなぜか内宮の港である二見の「大湊」は消え、外宮の港である「大湊」が発達しました。
大湊衆と外宮(山田)の御師のつながりが深かった理由が見えてくるような気がしますね。
(参考 伊藤裕偉「もうひとつの「大湊」─伊勢国二見郷の位相を探る─」『中世港町論の射程 港町の原像:下』2016)
外宮前の山田の方が内宮前の宇治よりも栄えていたということも重要ポイントです。
現代では内宮だけ参拝しておかげ横丁で飲み食いして帰っちゃう人が多いと思いますが、昔は外宮の方が参拝者が多く、山田の方が都会でした。
グーグルなんとかでご覧いただけるとおわかりになると思いますが、現代でも外宮周辺の方が市役所、裁判所、商店街などが集中しており(駅近ですし)、往時の発展ぶりがうかがえます。
なぜ、外宮の門前町である山田の方が都会だったのか?
色々理由はあるのですが、何よりも、交通アクセスがよかったのです。
御木本道路も御幸道路もない時代、外宮の方が行きやすい場所だったんですね。
外宮は町の中にあり、内宮は山を越えたところにある、というイメージです。
また、外宮と内宮の間にある関所で通行料が払えない貧しい人はそこであきらめて、内宮を遥拝して帰るということもあったのでしょう。
最高神・天照大神を祀るところなのに、内宮の方が人が少なかったのは意外ですよね。
しかし、だからこそ、戦国時代以前の内宮は神秘的で荘厳な雰囲気を漂わせている場所だったのではないでしょうか?
何事の おはしますをば 知らねども
かたじけなさに 涙こぼるる by西行法師
(写真は五十鈴川の川下から撮影した内宮の神路山です。すみません、もしかしたら島路山かも(;´д`))
すみません。
話を大湊に戻します。
ここまでの話で大湊の船の舟主に山田の御師がいたという状況をご理解いただけたでしょうか。
一昔前、大湊周辺の地名が関東の史料(武蔵国品川湊船帳)に頻出しているという研究が注目され、(研究者の意図しない形で)大湊が伊勢の中核都市であったかのようなイメージが独り歩きしてしまいましたが、近年では大湊だけではなく、他の都市、とくに山田とのつながりにも目を向けられるようになりました。
大湊という一つの都市だけではない、「宮川河口地域」という広い視野でみてみましょう(*'ω'*)ということですね。そうすると、「宇治」「山田」、特に山田を中心にした巨大な都市、「山田経済圏」というべきものが見えてくるのです。山田を中心とした流通経済、そしてさらには山田の中核には「伊勢神宮」の存在がある。宗教都市の性格も持っていたのです。
また各地にあった伊勢神宮の神領とのつながりや、神船(伊勢神宮への貢納物を運ぶ船)が寄港する港とのつながりもありました。伊勢御師たちのコネクションは列島各地にあったのです。
前回、日根野氏の件で出てきた「桑名」の町もそういうつながりがあったのです。桑名は伊勢神宮の御用材(木材)を木曽から運ぶための重要な港でもありました。桑名は神郡ではないけれど、古くから深いつながりがあったんですね。十二世紀初めには桑名の益田荘での米や魚介類の交易に伊勢神宮の神人が携わっていたそうです。また前回紹介した御師・福島御塩焼家も桑名の町と関わっている史料があるそうです。伊勢湾岸の御厨を通じて、伊勢神宮を核とした商業・流通が発展したのですね。福島家だけではなく、他の多くの御師や商人も桑名とはつながりがあったのでしょう。
さてさて、第二次長嶋攻めと同時期、信長が大湊衆に激怒していた案件が日根野氏の足弱の件以外にもありました。
今回はそのお話です。
織田にとっての敵方である東国と大湊の関係について、信長はお怒りだったようです。
■今川氏真から何か預かってない?(-"-)
塙直政書状 大湊文書
尚以道具之事氏実被預候ハヽ、随其以代物可被召ニ、
若非分なる儀にて其方ニ候ハヽ、又随其何之道ニも無理ニ
可被召置候儀無之候、有様可被申候、此外不申候
内々其筋目無事候
急度申候、仍氏実茶道具当所在之事必定旨申ニ付て、津掃被遣候、有様ニ被申不被進付てハ可為曲事由御意ニ候、具掃部可被申候、恐々謹言
塙九郎左衛門尉
十月廿五日 直政 (花押)
大湊中
大湊は古くから東国と関わりがあったことを紹介しましたね。大湊の廻船業の角屋七郎次郎らは北条氏、今川氏、武田氏らとも親交があったらしいんです。
このとき、今川氏真は家康の保護下にあって浜松にいたようです。とはいえ、今川は織田にとって敵側。
その敵側の氏真から「茶道具」を預かっているとは何事か?「津田掃部を派遣するから、茶道具を預かっている人にこの事を伝えて掃部に答えなさい」と詰問している手紙です。
氏真から茶道具を預かっていたのは大湊の角屋さんだったらしいのです。当時、「茶道具」は高級品。角屋は質として氏真から預かっていたのでしょうか?
日根野の足弱のことだけでなく、この件でも織田に難癖をつけられてしまった大湊。
大湊衆は織田側にどう答えたのでしょうか?
大湊老分書状 大湊文書
角屋七郎次郎許へ御尋物之儀申付候処、彼御預ケ物之儀者秋中 氏実様江送申、其上七郎二郎儀も。此一儀付 十日以前ニ浜松へ罷下候由、親ニ之ても七郎左衛門尉申事候、并浜松より御道具下候へ由之書状為御披見懸御目候、塙九郎左衛門尉殿へも御報可申上候へ共、此之趣可預御心得候、以上
天正元
十一月五日 老分
津田掃部助殿
鳥屋尾石見守殿
大湊の老分は十一月五日になって(急いでないw)、ようやく返事をしました。
雑にテキトーに要約すると、
「角屋七郎次郎が預かっていたとかいう物についてのお尋ねのことですが、もう浜松の氏真様に返していたとのことです。角屋さんが言ってたんですけど、息子さんはもう十日も前に浜松に行っちゃったらしいんですよ。塙殿にもそうお伝えください」
……まあ、その、「すっとぼけた」んですね。
信長の家臣・塙殿からの書状が十月二十五日でしたね。預かり物はとっくの昔に返しているし、「十日も前に」(つまり塙殿からの手紙を見る前に)この預かり物の責任者であったであろう角屋さんの息子さんは浜松に行ってしまい大湊にはいないことになっています。今更我々に聞かれても…という上手い言い逃れです。
調査のために信雄付の家臣津田掃部と北畠の家臣鳥屋尾石見守が現地の大湊に派遣されていたみたいですね。この調査結果を塙殿に伝えなければならなかった二人は胃が痛かったのではないでしょうか。正直に「あいつら、すっとぼけました」とは言えませんし。
こういう「すっとぼけ」をする大湊衆ですから、日根野氏に協力した舟主をそう簡単に信長に差し出すわけがない、と私は思います。ですから、ウィキペディア長島一向一揆にある記述は私的にはますます疑問なんです。
大湊衆はのらりくらりと、すっとぼけながら、足弱(女こども)と大事な舟主を守ったのだと思います。
■ところで、なんで信長は大湊にこんな難癖つけてくるの?
それは長嶋攻めのためには、大湊の船や人員が重要だったからです。つまり、何かと大湊に介入して織田の影響力を強めて、大湊を織田の影響下におきたいという思惑があったのだろうと考えられるのです。
信長が彼らに求めたもの。真の狙い……。
長島一向一揆を攻めるために、大湊に船(と人員)を出させたい。
地形を見てもわかるように、勝つためには海上からの攻撃が必要だと信長は考えていたのだろうと……。
ところが!!
大湊衆は思い通りになりませんでした。
■出せぇ!船を出せぇ!早く出せぇ!
大湊衆は船を出すのを渋りました。
国司北畠の命令であっても、です。
この話は長くなるので、続きは次回にしましょう。
では、また('ω')ノ
研究者の方々の著作を読んで私なりにまとめましたが、私のバイアスかかっていたり、間違った解釈をしているところもあるかもしれません。
中世の伊勢の経済について知りたい方はぜひ研究者の方々の論文等をお読みになってください(*'ω'*)
※「山田」について誤解を招くような文章があったので一部削除しました(2021.9.2)。申し訳ありません。
「山田三方」の行政権が及ぶ地域、山田の「十二郷」とは中世の段階で具体的にどこなのかハッキリしていないそうです。
山田の自治組織「山田三方」は三つの地域の有力地下人組織の合成によって成立しました。が、その三つの地域、「三つ」の「方」が具体的に山田十二郷のどの郷が組み合わさったものなのかが研究者の方々の考察の対象になっていたようです。
参考文献
伊藤裕偉・藤田達生 中世都市研究会『都市をつなぐ』
伊藤裕偉『中世伊勢湾岸の湊津と地域構造』
小島廣次「伊勢大湊と織田政権」
稲本紀昭「織田信長と長島一揆」
柴辻俊六『織田政権の形成と地域支配』
小川雄「織田権力と北畠信雄」
『伊勢市史 中世編二』
『伊勢市史 近世編一』
『三重県史資料編』
山本博文監修『あなたの知らない三重県の歴史』
伊勢湾沿岸の経済についてはまだまだ研究の余地があるジャンルのようです。
畿内と東国をつなぐ湊があり、伊勢国一国だけで語るべきものではないんですね。
また伊勢湾西沿岸だけではなく、東岸、つまり熱田の湊などとの関係にも視野を広げて検討すべき課題みたいです。
三河湾の湊や熱田の湊は東国に行き来するのは向いていないらしいのです。
いったん西岸(伊勢の湊)に寄ってから伊勢湾の外へ出て、東国に向かったことが想定できるのだとか(『都市をつなぐ』より)。現代の私たちが思っている以上に中世の伊勢の湊は重要な位置にあったのかもしれません。
これからの研究者の方々の発表に期待しています(*'ω'*)