信長に処刑された福島親子?Wikipediaの記述に疑問。
長島攻めの現代語訳をする前に、ちょっと調べたことを書きます。
長嶋一向一揆のWikipediaを見ると、
伊勢の大湊について、ちょっと気になることが書いてあります。
引用しますね↓↓
「湊の取り締まり
大湊での船の調達が失敗した背景には織田家より長島に肩入れをする会合衆の姿勢にも要因があった。こうした中で大湊が長島の将、日根野弘就の要請に応じて足弱衆(女や子供)の運搬のため船を出していたことが判明した。
この事実を知った信長は激怒し、「曲事であるので(日根野に与した)船主共を必ず成敗すること」を命じ、山田三方の福島親子が処刑された。信長は福島親子の処刑によって「長島に与すことは死罪に値する重罪である」と伊勢の船主達に知らしめ、長島への人員・物資補充の動きを強く牽制した。」
な、なんだって?
処刑された「福島親子」って何者?
Wikipediaによると、信長による第二次長島攻めの時、日根野氏に協力して信長を怒らせ処刑された「福島親子」がいたというのです。
そんな話は私は聞いたことがなかったので、びっくりしてちょっと調べてみました。
まずは、「福島親子」についてお話しなければならないのですが……
山田三方の福嶋さんとは、「伊勢御師」でして……
ちょっと長くなります。「伊勢御師」とはどういった人たちなのか、というところから話さなければならないので(;´д`)
私なりに勉強したこと噛み砕いて、そして雑に説明していきます。
■そもそも、「伊勢御師」って?
まず、伊勢神宮は「内宮」「外宮」という二つのお宮があります(本当はもっと多くのお宮で成り立っていますが、とりあえず二つ大きな宮があると思ってぇ)
「内宮」の門前町が「宇治」、「外宮」の門前町が「山田」です。(伊勢市は昔は宇治山田市という名前でした)
「内宮」の禰宜を「荒木田」さんという姓の一族が代々務めていました。
そして、「外宮」の禰宜を「度会」さんという姓の一族が代々務めています。
神宮における神官の最高位が禰宜です。
(そのさらに上には宮司、祭主がいます。なお現代の神宮については調べてないのでわかんないです(・・;)
しかし、禰宜のポストは限られています。
一族みんなが禰宜になれるわけではありませんでした。
こういった、禰宜ではない荒木田姓や度会姓の庶流の人たちがいつ頃からか「御師」として活動するようになったのです。(中世後期以降は荒木田姓・度会姓ではない異姓の神役人たちも御師活動をするようになり、やがて力をつけるようになります。)
禰宜は祭祀に忙しく、そして、櫛田川あるいは祓川(宮川としている本もあります)を渡って外に出るには勅許が必要だったのです(つまり、神域の外にあまり出られない)。(禁河の制)
ですから、禰宜より下の権禰宜、神人、神役人、その手代たちが日本各地の神領に出かけたり、一般の人たちから御祈祷の代行依頼の受付や貢納物を受け取っていたと考えられています。こういった活動が伊勢御師の始まりだったのでしょう。平安時代中期頃にはすでに御師の存在が確認できるそうです。
御師は〇〇大夫と称しました。
なぜかというと、五位の官位の権禰宜を兼ねる人が多かったからです。
御師は日本各地に出向いて信仰を広め、伊勢土産やお札を配り、祈祷の代行の受付、また伊勢に来た参拝者に宿泊所の提供をしたりして、ツアーコンダクター、旅館業のような役割をはたしていました。
そして、こういった御師と信者は結びつきができます。
↓↓↓(以下は私の妄想による御師と信者の関係)
御師手代「お久しぶりです!今年も御札と伊勢土産を
持って参りました!」
神領民A「わあ!待ってました!いつもありがとうご
ざいます」
御師手代「奥方様には伊勢白粉を。都でも評判の白粉
です」
神領民A妻「まぁ(*´∀`*)」
神領民A「あ、こちらが今年の貢納物です。」
御師手代「しかと受け取りました。某が大神宮に届け
ます」
神領民A「よろしくお願いします。また来年もお会いす
るのを楽しみにしています」
御師手代「ええ、また」
神領民A、御師「「私たちはズッ友!」」
〜〜〜〜〜
かなり私の妄想入っていますが、伊勢御師と各地の人々の結びつきはこんな感じでできていったんじゃないかな?と。
御師と信者の私的な結びつき。
これを「師檀関係」といいます。
(信者のことを「檀那」「旦那」「檀家」「道者」といいます。)
そして伊勢御師は「商人」であり、「高利貸」でもあったのです。
彼らの活動範囲は日本列島各地に広がっていて、戦国武将とも師檀関係がありました。
戦国武将は御師に領国静謐や武運長久などの御祈祷を依頼しました。その対価として寄進したり神楽を奉納したりしていました。
戦国武将と御師の関係はそれだけではありません、
時として、戦国武将は御師に兵糧を調達してもらったり、お金を貸してもらったり、預かってもらったりしています。商人であり、高利貸である御師は武将たちにとって頼りになる存在だったのでしょう。
ここまで御師の成り立ちと戦国武将の関係についてざっくり説明しましたので、話を肝心の「福嶋親子」に戻しましょう。↓↓↓
■名門度会姓の御師、福嶋家
福嶋家は山田に暮らす「度会姓」の御師でした。
福嶋家は美濃の斎藤氏と師檀関係にありました。
そして、斎藤氏が滅んだ後も、斎藤氏の家臣「日根野」氏とつながりがあったのです。
この福嶋家から別家した家に「福嶋御塩焼大夫家」がありました。
下の家系図をご覧ください。
(『考訂度会系図』を参考に作成しました)
御塩焼物忌職(神様にお供えする塩の準備に関わる)を受け継いだので、御祓名を「福嶋御塩焼大夫」と称していました。(伊勢湾沿岸は古くから製塩業が盛んで、大湊や二見は伊勢神宮に貢納していました。)
そして福嶋末尊は山田三方の年寄でもありました。
(ちなみに、福嶋御塩焼大夫家は後に大友氏と師檀関係にありました。)
さて、この福嶋御塩焼大夫家の親子が殺害されるという事件が起きます。『伊勢市史』に拠って説明いたしましょう。
・元亀三年(1572)八月、息子・末将が父末尊によって殺害されます。(考訂度会系図には家伝に継母によって殺害されたという)
そして
・元亀四年(1573)五月二十五日、父・左京亮末尊は北畠具教・具房の命によって「福嶋同名親類中」によって殺害されてしまいます。(考訂度会系図には家伝に継室と共に殺害されたという)
いったい、何があったの?
しかも、国司北畠の命令で親族を殺害?
ていうか、息子も父も死んだら御塩焼大夫家は断絶しちゃうじゃん!
どうするの?
お家断絶のピンチでしたが、跡を継ぐ者がいました。
事件の後、親類の福嶋新四郎末朝や北監物たちは御塩焼大夫家の存続をお願いしました。
そして天正元年(1573)九月、親戚の北監物の次男、鍋二郎が跡を継ぐことを北畠氏によって認められたのです。
……おわかりいただけたでしょうか?
この事件、福嶋家の「お家騒動」に国司北畠氏が介入した事件なんですね。
親類の北監物殿(末将の母つまり末尊の前妻は北家の娘)。この北がキーパーソンです。
北家も御師です。しかも、北家は北畠氏の「被官」だったんです。
ある研究者によれば、北畠氏が北家による御塩焼大夫家買得を後押ししたのだろうと。
ん?
あれ?
Wikipediaによれば「福嶋親子」は日根野弘就に協力した罪で処刑されたんじゃなかったの?
そこんとこが一番知りたいですよね?
(`・ω・´)
■で、福嶋末尊の処刑の理由は?
研究者の先生方が書いたものを色々読んだのですが、はっきりと日根野に協力したから福嶋末尊は処刑されたと明言している先生はお一人だけでした。
他の先生方は福嶋家と日根野氏、また桑名とのつながりを指摘しているものの、処刑の理由は明言していないんです。あくまで「推測」な感じ?事件の背景には長島攻めと日根野氏のことがあるのだろう、、みたいな。
また、福嶋末尊殺害事件について述べるときに日根野氏に全くふれていない研究者もいます。
『伊勢市史』もノータッチ。福嶋末尊殺害事件に関する記述には日根野のヒの字も出てきません。
もー! 誰を信じたらいいの?
というわけで、自分で史料を見ながら考えてみることにしました(´ω`)
■とりあえず時系列に並べてみるっ!
・元亀3(1572) 8月、福嶋末尊が息子を殺害する
・元亀4(1573) 5月、福嶋末尊が北畠具教、具房親子の命令によって福嶋親類中によって殺害される
・天正1(1573) 9月14日、日根野氏の弟が福嶋新四郎に宛てた手紙を書く※
・天正1. 9月20日、織田家臣塙直政が大湊惣中に宛てて「日根野の足弱を船に乗せて脱出させたことに信長様が激おこ。日根野に協力した舟主を許さないから逃さないようにしろ!」という内容の手紙を出す。
・天正1. 9月22日、北畠氏から北監物に「福嶋御塩焼大夫家の跡職を鍋二郎が継ぐことを認める」という文書が出される。
・天正1. 9月24日、織田軍が長島攻めを開始
お気づきでしょうか?
……時系列がおかしいですよね?
信長が日根野氏の協力者がいることに激怒したのは9月20日。福嶋末尊それより前に殺害されています。
そして、信長激怒の手紙から2日後に福嶋御塩焼大夫家の存続が北畠氏によって認められています。
…やっぱり、時系列がおかしいですよね。
時系列が合わないことを指摘している研究者の方がお一人いました。
でも、その方の論文はそれが主題ではなかったみたいで、指摘するにとどめてそれ以上は深く掘り下げていませんでした。
うう、そこんとこが知りたいのに。
どうなんだろう? 福嶋末尊殺害事件と日根野氏は関係あるんだろうか?
日根野氏から福嶋に宛てた手紙が残っているし、つながりがあったのは確実。でも、でも、、時系列がおかしいし、、
……そういえば、
日根野氏が手紙を出した相手の「福嶋新四郎」って?
「新四郎」って?
もう一度、家系図を見てみよう↓
福嶋家本家の新四郎末朝です。(殺害された左京亮末尊は別家です)
日根野氏とつながりがあったのは御塩焼大夫家ではなく、本家の方だったのです。
では、新四郎は処罰されたのか?
いえ、そのような史料は残っていませんし、この後も新四郎は活動しています。
(新四郎末朝は天正9年に亡くなりました。末朝の息子末昭も新四郎を名乗っていますが、天正3年11月9日に亡くなりました。)
おそらく、なんの処罰もなかったのでしょう。
■じゃあ、なんで福嶋末尊は殺害されたの?
なんらかの「理由」で北畠氏(と福嶋親類)は殺害しましたが、その具体的な「理由」を書いた史料がないので、わかりません。
結局わからんのかーい!
て怒らないで(;´д`)
だって、史料がないんだもん。仕方ないでしょ。
ただ、第二次長嶋攻めとほぼ同時期に起きた殺害事件であり、事件の関係者である福嶋家は美濃の日根野氏とつながりがあり、別家の御塩焼大夫家も桑名の町とつながりがありましたから、全く関係がなかったとも言い切れない……
何か新史料出てこないかな—。そしたらハッキリわかるかもしれないのにな—。て思います。
今のところ、私個人の見解では、福嶋末尊殺害事件と日根野氏のことは関係なかったんじゃないかな、と思います。親族間のトラブルがあって、『伊勢市史』の説明のように国司北畠が介入し、「成敗」の命令を下したのだと思います。
■Wikipediaの記述について
というわけで、Wikipediaの記述はちょっと違うんじゃないかな、と思います。
成敗されたのは「親子」ではなく、父親だけですし。
それと研究者によって見方が違うので「諸説あり」にした方がいいんじゃないかなぁと。
Wikipediaの修正したいけど、やり方よくわかんないからいいや(´ω`)
■実は後日談がある
福嶋末尊殺害事件による北鍋二郎の御塩焼大夫家相続には後日談があります。
鍋二郎が相続した後、、あの九鬼嘉隆が異議ありだと介入したんですね。
鍋二郎側は反論。「今更……?」
■詳しいことが知りたい人は参考文献読んでください(*´ω`*)
『伊勢市史 中世編2』
『伊勢市史 近世編1』
『三重県史 資料編 中世一中』
『三重県史 資料編 中世一下』
『三重県史 資料編 近世編』
西山克『伊勢御師と来田文書』
小島廣次「伊勢大湊と織田政権」
稲本紀昭「織田信長と長島一揆」
千枝大志「中近世移行期伊勢山田における近地域間構造」(『都市をつなぐ』)
惠良宏「福嶋御塩焼大夫文書について」(『神宮御師資料』)
水谷憲二「北伊勢地域の戦国史研究に関する一試論(1)」
嶋田謙次『伊勢商人』☆
井上賴壽『伊勢信仰と民俗』
大西源一『参宮の今昔』
☆伊勢御師に関する説明は嶋田謙次『伊勢商人』によるところが多いです。
日根野氏の足弱(女や子ども)を大湊の船に乗せて逃したことを信長が激怒していたことを今回紹介しました。それだけではなく、大湊に対して信長が激怒していた案件が他にもありました。
次回はそのことについて書いていきます。
色々勉強していくなかで、私個人としては福島大夫や大湊衆に好感を抱くようになりました。
※日根野氏の手紙(神宮文庫所蔵)
日禰野重之書状寫
如仰、其以後全無音候處、御祓被掛御意候、目出度頂戴候、於御神前、御祈念旨忝存候、彌奉願存候、哀遂本意、立願之筋目相勤度存念迄候、抑郷北越前之始末、不慮之題目不及是非候、然者、當表へ信長可及行旨、今聞沙汰候、雖然手前所堅固之覺悟候間、可御心安候、以備中守御報可申入候へ共、長嶋へ罷越候条、不能其儀候、先從愚拙申入候、隨而東國ニ殘置候妻子以下、無其儀罷在、是又可御心安候、猶二見殿へ申入候条、不能巨細、恐々謹言
日禰野彌二右衛門
九月十四日 名乗判
福嶋新四郎殿
御報
(岐阜県史史料編 古代・中世四 p996~997より 岐阜県史によれば年次不詳)
▲お詫び▲
上部氏は「異姓」だと書きましたが、誤りです。正しくは度会氏の出身でした。申し訳ありません。2021.8.21