『多聞院日記』に伊勢の関所の事が書いてありました
古文を読むのが得意な方がいらしたら、アドバイスお願いします(;´д`)
42話「信長参宮の事」
43話「和睦の時期と関所のこと」
44話「戦国時代や室町時代の伊勢参宮について」
にてお話した信長の関所政策について。
色々資料を見返していたら、同時代の史料『多聞院日記』に伊勢の関所について記述がありました!
(多聞院日記は国会図書館デジタルコレクションで読めます)
永禄十三年(元亀元年)一月十日『多聞院日記』
「一、元日ヨリ伊勢ノ関悉以上了、去年信長錯乱ノ立願、且廿一ケ年可上云々」
ちょっと(いや、かなり)自信がないのですが、私なりに現代語訳すると、
「元日から伊勢の関所はすべて開けられた。去年の伊勢大乱の時、信長が願い立てたことだ。しかも二十一ケ年は開けるべきであるという話だ。」
多聞院日記によると、永禄十二年、北畠と和睦した時に、すぐに関所を停止したのではなく、翌年の十三年から実施したのです。
そして、「二十一ケ年」とは、どういう意味なんでしょう?
すぐに思いついたのは、伊勢神宮の式年遷宮と何か関係があるのかな?ということです。
式年遷宮のための準備(木材運んだりその他いろいろ)で、たくさんの人々が伊勢を行き来する必要があったでしょうから、信長は関所を開けたかったのかな?と考えました。
一般の参拝者も式年遷宮に合わせて増えることが予想されたでしょうし。
まあ、素人の浅い考察(ていうか妄想)なんで、話半分に聞いといてくださいね(*´Д`)
それにしても「二十一ヵ年」て本当に何の事なんでしょうね???
▲式年遷宮の準備について誤解に基づいて書いてしまったので一部削除しました。申し訳ありません(2021年㋅29日)
▲追記です。「二十一ヵ年」とは徳政令と関係のある数字ではないかと思い始めました。それがどういう形で関係があるのかはわからないのですが……。
信雄が宇治六郷に宛てた徳政免許状を見ると「二十一ヵ年の間免除する」ということが書かれているんです。「二十一ヵ年」に何の意味があるんだろう?単に信長父子が好きな数字なの?徳政免除と関所撤廃なにか関係あるの?さっぱりわからん!歴史に詳しい方教えてください( ;∀;)
早島大祐『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』を読んだら室町時代の徳政令に「二十一年以内の借金は破棄」という条項があった(p87)というのはわかったけど……、それが徳政免除と関所撤廃とどう関係あるのかわからない(;_:)それとも単なる偶然の数字なの????「21」の謎!
それからもう一つ、気になる言葉が。
「立願」
とはどういうことでしょう?
辞書をみると「神仏に願うこと」とあります。
信長は神仏に願った、ということ?
北畠晴具が病気回復を願って関所を解放したことがあります。
もしかしたら、信長は天照大神に武運長久を願って伊勢の関所を解放したのかもしれません。
あるいは、伊勢攻めの際に、「勝ったあかつきに、関所を開放します。どうか勝たせてください」と誓願をたてていたのかも…? 伊勢の関所開放は神様との約束だったのかもしれませんね。
実は私、ちょっと疑ってたんです。
「本当に伊勢の関所は廃止されたの?」と。
今回紹介した『多聞院日記』をみると信長による伊勢の関所の停止は本当にあったみたいですね。
ですが! 伊勢国のすべての関所にそれはあてはまるのでしょうか?
元亀三年と、天正二年の史料に大湊衆が入港税を徴収していたという記録があります!
また、「神宮年代記抄」には元亀三年と天正三年に「宮川橋賃」が徴収されていたと思われる記述があります。
つまり、伊勢国すべての関所が廃止されたわけではなく、継続して(あるいは復活して)関銭(通行料)を徴収した関所もあったのでしょう。
この時代の伊勢の関所の実態については、これからも調べていきたいと思います。
とくに、小田、岡本にあった関所について知りたい…!
たぶん、私が見つけられていないだけで、この時期の伊勢の関所に関する論文がすでにあるんじゃないかな、と思います。
どなたかご存知の方がいらしたら、教えていただけたら嬉しいです。
参考
三重県史資料叢書4 北畠氏関係資料ー記録編
国立国会図書館デジタルコレクション『多聞院日記二巻』
それにしても、なぜ北畠は合戦では負けていなかったのに、和睦後は織田の言う通りに城を破却させたり関所を停止させたりしたんだろう。織田の方が政治的な力が強かったから?
うーん、わからん。
▲追記
和睦の条件が「関所の停止」「城の破却」だったのかも……?
そして関所の停止は北畠氏が参宮路に設置した関所に限った話だったのかな、と。
まあ、素人の浅い考察(妄想)なので、話半分に聞いてください。