大河内家の事 ※少し改稿しました
今回も三瀬の変に関する記事です。
三瀬谷で具教が討たれた同じ日、田丸でも北畠の一族が討たれます。
ネット情報を見ると「おおこうち」になっているのがありますけど、「おかわち」です。
大河内の御所は魔法を行う兵法の達人であった。田丸城で一族が討たれたそのとき、彼は病で城下の宿所に滞在していた。
柘植三郎左衛門尉、小川九兵衛尉(このときは小傳次と名乗っていた)の二人が見舞いと偽ってやってきたのである。実は二人は大河内御所を討つ命令をうけていた。
大河内家の侍・高木弥一右衛門尉も座敷で二人に対応した。柘植は「お茶をいただきたい」と請うた。それをうけて高木は座を離れた。
座敷には大河内御所、柘植、小川の三人がのこされた。
――そのとき、柘植が大河内御所に飛びかかった。大河内御所が刀を抜こうとしたところ、小川が突いた。二太刀めは避けることができたが、二人にはかなわない。大河内御所はついに刺殺されてしまった。
隣の部屋では小姓二人が食事中であったのだが、主を助けることなく逃げてしまった。二人だけではなく、この非常事態に大河内家の者たちは皆逃げてしまったのだ。
そのため、この当時「大河内衆は鞘大豆」と言われ笑われてしまったのだ。鞘大豆とは「打てば飛び散る」という意味だ。
>魔法を行う兵法の達人であった
「魔法」ってなんやねん。
ずっと疑問でしたが、最近はもしかして「愛宕信仰とか修験道に関係あるのでは?」と私は思っています。北畠の本拠地である多気は山に囲まれた所なので、修験道と関わりがあったのではないかと。
それと、「大河内御所」は具体的には誰のことなんでしょう?
大河内教通のことであるとしている本が多いような気がするのですが、系図を見ると「具良」という名前もあり…どっちなんだろう(T_T)
系図では具良の嫡男が教通になっております。
田丸で殺害された魔法を使う兵法の達人は具良なのか、教通なのか…
勢州軍記では「大河内家」「大河内御所」という表記です。具良か教通かどちらなのかわからない表記ですね。
wikipediaの三瀬の変の項を見るとその辺が曖昧な記述になっていますね。具良と教通は別人のはずですが、同一人物だと誤解されるような記述です。
※追記
神戸能房著『伊勢記』(蓬佐文庫所蔵)を確認したら
「大河内御所式部大輔具良者兼行魔法兵法達者也時病中在田丸宿所」
という記述がありました!
著者の神戸能房は勢州軍記の著者、神戸良政のことです。良政は勢州軍記を書いた後、能房に改名したみたいです。
原作者の神戸先生が「具良」としているので、私の現代語訳も教通ではなく「具良」にしましょうかね……?