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曽原城の事

元亀二年夏、国司具房は船江城に出馬した。そして国司勢は曽原城を攻めた。


家木(いえき)主水(もんど)(のすけ)のは無双の勇士だが、主君に対して弓を引きたくないと思い、曽原勢を裏切り国司勢についた。


曽原勢は家木を討とうと総出で打ち出て弓鉄砲を放った。


家木は船江侍を頼った。


船江の高嶋椋右衛門尉と森甚右衛門の二人は曽原勢に防戦した。

高嶋は弓を持ち、森は鉄砲を持ち戦い、矢玉は尽き、矢ひとつ、玉ひとつが残るだけになった。

迫りくる曽原勢もそれは同じで互いに撃ち合ったのだ。


弓を持っていた敵の武者は高嶋となかなか勝負がつかなかった。

家木は言った。

「しばらく、矢を放つのはやめなさい」

その時、敵の矢が飛んできて、高嶋の弓に当たった。

敵はすぐに逃げ、それを見た家木は

「矢が武器に当たった者は死にません。敵中に進んで戦いましょう」

と言ったという。


その後、国司勢は曽原城に攻め入り、天花寺小次郎はついに滅亡した。天花寺小次郎は強い意志を持って国司に背き、後のことを考えずに自ら滅亡する道を選んだ。よく考えるべきだった。

主君自らの出陣に、家木は「主君に弓引くわけにはいかない」と曽原勢を裏切ってしまいます。

曽原勢的には「てめ、家木!待てよ!許せねえ!」と家木を攻撃。その家木を船江衆が守ります。

ここで「高嶋椋右衛門尉」が登場!

勢州軍記の著者・神戸良政の祖父の弟です。

船江衆の活躍に関する記述は著者が親族から聞かされていた話(武勇伝)だったのかもしれませんね。


この家木と高嶋椋右衛門尉のエピソード、よくわからないのですが、

「矢が武器にあたった者は死なない」

てなんですかね?

そういうゲン担ぎみたいなのが戦国時代にはあったんですかね?

自分の身代わりに武器が矢にあたったから、本人には絶対当たらない、みたいな。

ちょっとよくわからないです('ω')

このゲン担ぎで勇気百倍になったのか、国司勢は曽原城に攻め込んで、三年におよぶ戦いに終止符が打たれたのでした。

著者・神戸良政は孤軍奮闘した天花寺小次郎について「誠可有思慮者也」(誠に思慮あるべき者なり)と記しています。

この一節の訳について私は「よく考えるべきだった」としましたが、正しい訳なのか自信がありません。間違えていたらごめんなさい。



……ところで、この曽原城の騒動に関して、ちょっと具教について気になる記述が『伊勢記』にありました。


『勢州軍記』の著者、神戸良政(能房)が後に編纂した『伊勢記』をみると、


「天花寺者国司之聟也云云」

「此春攻曽原城堅守不陥南伊勢衆拵付城攻曽原是具教卿御内意乎云云」


という記述が!


国司の聟とは具教の娘が天花寺小次郎に嫁いでいるということですよね(具房はまだ若いので嫁がせる年齢の娘がいたとは思えません)。

しかも「是具教卿御内意乎云云」とは

「天花寺の行動は具教の内々の意向があったからではないかという話がある」

という意味でしょうか?

漢文の訳が間違えていたらすみません(._.)

もし、私の訳があっていたら、天花寺小次郎の裏から糸を引いていたのは大御所具教ということになりませんか?

そして、息子である国司具房は曽原城を攻めるために出陣したということは……



三瀬の変で具教は殺されたのに、なぜ具房は命をとられなかったのか、ヒントがあるかもしれませんね。

そして、なぜ、具房は「太り御所」とバカにされたのか。


織田から見たら、両家の繁栄のために協力する理解者であり粛清の対象にはならなかった。

しかし、反織田の気持ちを抱えている北畠家臣から見たら、具房は織田におもねる不甲斐ない主君だったと記憶されてしまったのかもしれません。


あ、あくまで素人の考察(妄想)ですよ(*'ω'*)

それに『伊勢記』の記述もどこまで事実なのかわかりませんから。

でも、こうやって文献をみて色々妄想するの楽しい( *´艸`)


★曽原城、城主天花寺氏について

天花寺家由緒書によると、元々は鎌倉時代、一志郡の天花寺というところに所領のあった久我氏という一族で、南北朝時代に北畠顕能の幕下になったそうです。色々あって天花寺を離れ、国司政具の時に久我主計介という人が多気に在住。

久我主計介は武功によって国司家の姫を嫁にもらい、曽原七郷を給わりました。

嘉吉元年、曽原城を築城。久我主計介は「天花寺」氏を称し、以後十数代、曽原城に居城しました。


曽原城は旧三雲村役場のあったところ。周辺の地名に「城前」「大手」など、かつて城があったと思わせるものがあります。また、「市場」という地名もあり、そこは城下町の市場があったところだそうです。

曽原は位置的に伊勢湾と繋がる雲出川、湊と近いですね。天花寺氏は交易などで栄えていたのでしょう。

(参考『三雲庶民史』)






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