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一国平均の事

45部分「式年遷宮の復活について」のあとがきに手を加えました。よろしければ、お読みください。

信長の武威は天下にとどろき、諸国を平定した。

秦の始皇帝が六国を統合したかのようだ。


今、勢州一国を治めて、次男の茶筅丸に大河内城を守らせ、国司の分国は与力している。


三男・三七丸(神戸信孝)に神戸城を守らせ、関一族はこれに与力している。


信長の弟・上野介(信包)に安濃津を守らせ、工藤はこれに与力している。


そして家臣滝川家に長嶋城を守らせて北伊勢はこれに与力した。


一益は、初めて検地をして、諸侍の領地を改めた。


その後、諸家はこれに倣って諸国の検地をしたという。


そして、ある時、信雄は、信包と勢州の南北の境界線を決めることになった。信雄は雲出川を境界線にしようと望んだ。


しかし、ある老人が進み出てこう言った。


「古い歌に、このような歌がございます。

風早(かざはや)の池の流れの(した)たりは

安濃と一志の境なりけり」


この歌によって、この境界争いに決着がついたという。




前回、茶筅丸は十二歳だったのに、いきなり年月飛びすぎじゃね?

いえ、私が飛ばしたのではなく、勢州軍記が時を飛ばしています。

『伊勢記』をみると、滝川が検地を始めたのは元亀元年以後のことだそうです。


今回の後半部分、信包との境界争いの話はいつ頃の話なのかは、よくわからないです。

おそらく、信雄(茶筅丸)が北畠当主になった後の話でしょうね。

日本昔話のような話ですが、なぜか、おじいちゃんが登場して古い歌をよみ、平和的に境界が決められましたね(これが史実なのかは不明)。

『三重県郷土資料叢書 勢州軍記上巻』の脚注によると

「風早の池」とは旧久居市戸木の北部丘陵にある灌漑用水池のことで、それは相川という川の水源なのだそうです。で、「下たり」(しずく)が流れるのが安濃郡と一志郡の境が合う川、「相川」だという意味の歌です。

雲出川を境にするより、領地が広いから、信雄的には得だったのか……?



信雄はいつごろ、北畠の当主になったのか?

天正三年だという説もあれば、天正元年だという研究者もいて、もう何が何だか……。

どうも信雄は当主の座につく前から、南伊勢での実権を徐々に掌握していったらしく……

よく言われているような、うつけ者ではないと思うんですけどね。

……この話需要あります?

なければ、現代語訳をサクサク進めます。

「需要ある!」という方は感想欄に一言「ある!」と書いていただければ、更新に時間はかかりますが、次回は信雄のことをたっぷり語る回にします。

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