国司養子の事
第2部分「山田合戦の事」のあとがきに少し手を加えました。よろしければ、お読みになってください。
山田合戦の話はあらためて詳しい話を書いた方がいいでしょうか? 需要ありますかね?
このとき、信長の次男、茶筅丸を北畠家の養子とした。
十二歳であった。
織田掃部助を南方の奉行とし、その他、
生駒半左衛門尉、
林豊前守、
足助十兵衛尉、
小崎新四郎、
安居将監、
林与五郎、
天野佐兵衛門尉、
池尻平左衛門尉、
津川源三郎、
土方彦三郎、
以下諸侍を付き添わせ、彼らを茶筅丸のそばに派遣した。
茶筅丸はまず、船江の薬師寺に居住した。
五十日ほど、滝川左近将監一益を同じ船江にある浄泉寺に滞在させ、さまざまなことを任せた。
その他の諸侍も皆、船江に居住した。
国司父子は船江城に来て、茶筅丸と対面し祝いの儀式をした。
>織田掃部助
津田一安ですね。
この人はちょっと謎の多い人だと思います。
『伊勢記』では茶筅丸の傳守として遣わされ、国司によって南伊勢奉行に定められたとあります。南伊勢奉行についた時期は不明ですが(そもそも南伊勢奉行という役職は本当にあったのかよくわからない)、三重県の史料にちょいちょい名前がでてくる人なので、重要な人物だったのは間違いないと思います。
三瀬の変のあと、この人は……
あとの侍たちのことはちょっとわからない( ゜Д゜)おい
織田家の家臣と同じ苗字の人がちらほらいるので、みんな尾張からついてきた人なのでしょう。
(※この人たちについては調べたことをいずれ纏めて追記します。)
さてさて。
『勢州軍記』の著者・神戸良政がのちに編纂した『伊勢記』をみると、ちょっと面白いことが書いてありました。
船江は元は秋山の領地であったけれど、秋山は当時、国司に勘気をこうむり、領地をとりあげられ、船江は茶筅丸や織田掃部助に与えられたというのです。
これがどこまで事実なのかはわかりませんが、興味深いですね。
それから、茶筅丸は【人質】という認識だったらしいことが『伊勢記』には書いてありました。
「国司命本田使茶筅丸先被入船江薬師寺 此船江元来被預人質處也」
船江はそもそも人質を預かる場所だったというのです。
そういえば、木造家の家老柘植の娘も人質になっていましたよね。彼女の処刑の時、彼女を迎えに行き実行したのは船江城主・本田の家来でしたね。(「木造合戦の事」参照)
でも、人質である茶筅丸やその家臣に領地を与えたってどういうこと?
よくわからないです。
『伊勢記』によると茶筅丸は三年間、船江の薬師寺にいたそうです。
また、木造家から源城寺(源浄院)と柘植三郎左衛門も茶筅丸に付けられました。源城寺はこのときに還俗したとのこと。
そして、日置大膳亮、小河小傳次、長野左京亮など多くの北畠家臣たちも国司より茶筅丸に付けられたそうです。
そして、この後に気になる一文が書いてありました。
「但不称養子」
ただし、養子ではない。
という意味? (漢文が得意な方!いませんか!)
私の妄想をフルにして『伊勢記』に書いてあることを解釈すると、
茶筅丸は当初は養子としての扱いを受けていなかった。大事な人質としてもてなされていた。念のために北畠の家臣をつけてお目付け役にした。ということでしょうか?
まあ、『伊勢記』の内容がどこまで事実なのかは、わからないんですけどね。
事実だとしたら、十二歳の少年が敵国に入り込み、自分に付けられた敵の家臣を数年で取り込み、お家乗っ取りに成功するとは、かなり有能です。人質扱いから当主の座におさまったのですから、恐ろしい子です。
彼は創作物でバカ扱いされることが多いし、ネットでもさんざんないわれようですけど、そんなに言うほどバカな人だったとは思えないんですよね。史料を見てると、未熟な若者とは思えない狡猾さで着実に南伊勢を支配していったように私は思うのです。