信長はなぜ堤源助の宿に泊まったのだろう
第42部分「信長参宮の事」の後書きにおいて
「堤大夫は北畠氏の御師だ」と言いましたが…
はたして、永禄十二年、信長が参宮した時点でも北畠と堤大夫が師檀関係にあったのかは不明です。
西山克『道者と地下人ー中世末期の伊勢ー』p215によると
「『氏経神事記』(大神宮叢書『神宮年中行事大成前篇所収)文明十年(一四七八)四月二日の条に
「北畠殿御参宮、(中略)、仍為御礼、山田御宿蔵田之許ニハ氏綱ヲ進」とあって、蔵田大夫が北畠氏の御師であったことが明瞭である。ただ慶長七年(一六〇二)正月二十一日付福井大夫覚(『輯古帖』十三・福井式部蔵)には「伊勢国司ハ、蔵田大夫御道者ニ而御座候ヘ共、一度不忠仕儀候て、堤源助御道者ニ御成候事」と見える。この交替が事実としてもその時期は明らかではない。」とのこと。
いつごろから堤大夫と北畠氏が師檀関係にあったかはわからないのです、ごめんなさい。
(ただ、具教の奉行人教兼から堤源助宛の手紙があるので、永禄年間には既に師檀関係にあったんじゃないかと思います。)
そして、なぜ、信長が伊勢参宮のとき、織田の御師である上部大夫の宿ではなく、堤大夫の宿に泊まったのか?
これが、よくわかりません。
そのとき、上部大夫が衰退していて堤家の門内に居候していたから代わりに堤家が接待にあたったのだ、という話が『みもすそ』85号に載っていましたが、出典がよくわかりませんでした。(私が見つけられなかっただけかもしれませんが)
大西源一氏によると、江戸時代、御師の宿ではない一般の町宿に檀那が泊まると、その町宿は御師によって酷烈な制裁を受けたそうです。
また、慶長十年、山田三方が規定した十七ヶ条の『御師職式目』をみると
「一、餘人之御道者一切旅籠仕間敷事」
(他の御師の檀家は、一切これを自家に宿泊せしめてはならない)
という決まりがあるのです。
※道者=檀那、檀家
また谷戸佑紀氏『近世前期神宮御師の基礎的研究』p76によると、慶長年間に御師の久保倉氏と三日市氏の旦那の宿所をめぐる争いでは、真偽不明ではありますが、刀傷沙汰が起きたとされています。(こういった旦那をめぐる御師同士のトラブルを旦那争論と言い、この調停をするのが山田三方だったといわれていますが、後に山田奉行がその役割を担うようになりました)
江戸時代初期でそうなのだから、戦国時代はもっとそういう縄張り意識が強かったんじゃないかなぁ、と。
自分の檀那が他の御師の宿に泊まったら、御師はめっちゃ怒ったはずだ、と思うのです(あくまで私の想像です。根拠となる史料はないです)。
「ウチの檀那やぞ!勝手に手出すなや!」
とブチ切れたんじゃないかな、というのが私の中の御師像です(あくまで想像です)。
だから、『信長公記』『勢州軍記』にある信長が堤源助の宿に泊まったという記述は不自然に思えるんですよね。
『信長公記』『勢州軍記』が伝えるように堤大夫の宿に泊まったのが事実だとしたら、よっぽどの事情があって上部大夫も了承の上、泊まったのでしょう。
『勢州軍記』の著者・神戸良政が後に編纂した『伊勢記』をみると
「此日信長至山田出桂瀬山陣到山田宿堤刑部大夫館 信長御師上部越中大夫也 其館依挟也 堤大夫者国師御師也」
とありました。
「国師」は「国司」の間違いでしょう。
ちょっと漢文に自信がないのですが、
「この日、信長は桂瀬山の陣を出て山田に着いた。山田では堤刑部大夫の館に泊まった。
信長の御師は上部大夫である。上部の館より挟んだところにある。
堤大夫は国司の御師だ」
ていう意味ですかね? あってます?
(後で見たら読み間違いをしていました。詳しくは追記をご覧ください)
神戸良政もわざわざ信長の御師が上部であること、堤が国司北畠の御師であることを書いたのは、
「あれ?なんで堤の宿に泊まったの?」と不思議に思ったからじゃないでしょうか?
(『度会人物誌』をみると源助という別称をもつ人物が何人かいて「刑部」という別称も合わせ持っているので、「堤源助」と「刑部」は同一人物だとみていいと思います)
やっぱり、信長が堤源助の宿に泊まったのは不自然に思えるんですよね。
堤源助の宿に泊まったのが事実なら、何か理由があったのでしょう。
『伊勢記』の記述を信じるならば、堤大夫と上部大夫はご近所だったわけでして……。
上部大夫がなんらかの事情があって(たとえば、火事で館が使えなくなったとか、家人に不幸があったとか?あるいはお金に困っていたとか?)、ご近所さんの堤家にお願いしたのかもしれません。
永禄十二年当時、堤大夫が国司北畠の御師だったとすると、なんとも面白い関係だと私は思うのです。
ご近所さんの檀那は自分の檀那の敵だったんですよね。
御師たちはお互いの檀那の合戦の行く末をどんな気持ちで見守っていたのか……?
檀那への義理を守りつつも、ご近所さんでもある御師仲間同士の義理も忘れてはならなかったのでしょう。
戦国時代の伊勢御師は興味深い人たちですね。
……なんてことを思いましたが、『信長公記』『勢州軍記』『伊勢記』も伝聞で書かれたものですからね。
そもそも信長が堤源助の宿に泊まったという事実などなかったかもしれません。
なんだかまとまりのない記事になってしまいました。
素人の私には、推測に推測をかさねるような話しかできません。ごめんなさい。これ以上は調べようがありませんでした。ギブアップです。
私の疑問に付き合ってくださった図書館の司書の方々、また図書館で私の質問を訊いてくださった伊勢御師に詳しい方、本当にありがとうございました。
▲追記▲
後で読み返したら、恥ずかしいことに「狭」と「挟」を読み間違えていたみたいです。手編と獣偏の違い……。
「信長御師上部越中大夫也 其館依狭也 堤大夫者国師御師也」
「信長の御師は上部大夫であるが、その館は狭かったために国司の御師である堤大夫の館に泊まった」と訳した方が自然な気がしました。合ってますでしょうか? 堤大夫の宿に泊まった理由は「上部大夫の館がせまかったから」みたいですね…。
★追記
「山田惣絵図」を見たら上部大夫の屋敷はおそらく現在の裁判所の辺り、堤大夫の屋敷はおそらく伊勢市駅をちょっと行った辺りにありました。
戦国時代の伊勢御師について、もっと書きたかったのですが需要がなさそうなのでやめておきます。
ブクマをしてくださっている方々は勢州軍記の現代語訳が読みたいからブクマしてくださっているのに、現代語訳を放置して俺は何を一人で突っ走ってウンチク話を更新しまくっているんだ……と気づきました。すみません。
次回からは現代語訳に戻ります。
☆次回予告☆
「国司養子の事」
ついに、十二才の茶筅丸が登場します。お楽しみに。