式年遷宮の復活について【改稿しました】
室町時代後期〜戦国時代・安土桃山時代の式年遷宮について、ざっくりと簡単にまとめます。
とある歴史系サイトなど、ネットを見ると
「戦国時代は戦乱などで伊勢神宮が荒廃していて式年遷宮も途絶えていた」
「信長以外の戦国武将は伊勢神宮に関心がなかった」
というようなことを書いています。
また、他の記事には
「そこで信長が関所を廃止して人を多く呼びこみ伊勢の経済を復活させその利益を式年遷宮の費用にあてた」
というようなことを書いているのが目に入ります。
また、とあるサイトには
「それまで一般国民の参拝は許されていなかったのに、資金難だったから解禁された」
というようなことを言っている記事も。
う、うーん。
ちょっと、違います。
式年遷宮の費用は平安中期以降は全国の荘園・公領に「造大神宮役夫工米」というのが課されていて、それがあてられていたのです。
室町時代、この徴収をするのが室町幕府の仕事だったんですが……、
幕府が衰退していくとともに徴収が困難になってしまったのです。
幕府はなんとか式年遷宮の費用を調達しようと日明貿易の利益を出そうとしたり、新しい関所を粟田口や伊勢岡本に設置して関銭を徴収したりと頑張ったのですが、上手く行かず……。こういった費用が不足している状況の中、なんとか執り行われたのが寛正3年の第40回の式年遷宮でした。これ以後、123年間にわたって正式な式年遷宮は途絶えます。
(また、伊勢国内外の神領の年貢を武家が押領しちゃったり、なんてこともあって、直接の収入が減ってしまった伊勢神宮はかなり苦労していたみたいです。)
こういう状態でも、前回紹介したように、参拝者は来ていたのです。
式年遷宮の費用が足りなくて荒廃していたのに、参拝者が多いというのは、ちょっとイメージしにくいかもしれません。
神宮の建物が荒廃している=参拝者がいなかったんだな、と誤解してしまっても仕方ないことです。
ですが、正確な数は不明で実態もはっきりとはしないものの、貴賤を問わず多くの参拝者があったと示す史料はあるのです。ですから、資金難だったから庶民の参拝が戦国時代に解禁されたという話は違うんじゃないかな、と思います。(※1)
信長の政策などによって、さらに参拝者が増えた、という話ならあり得るとは思いますが、信長以前は参拝者がいなかったという話はうなずけない、ということです。(※2)
さて、室町幕府が式年遷宮の費用を十分に用意できなくなってからは、北畠氏の寄進や山田三方の有力者の寄進によって、また神宮の役所から費用を出して「仮殿遷宮」をしてなんとか頑張っていたみたいです(その間にも宇治山田合戦という人災、火事、地震や台風などの天災もあって大変だったみたい)。
細川高国、今川氏親、武田信虎、織田信秀も寄進していたそうです。
(よって、歴史系サイトに書いてある「信長以外の戦国武将は伊勢神宮に関心がなかった」というのも私は違うんじゃないかな、と)(※3)
寄進に支えられて頑張っていましたが、仮殿遷宮であって、正式な式年遷宮ではありませんでした(※4)
こういった苦しい状況でしたが、「勧進聖」の貢献がありました。
諸国を勧進し、募金を集めた僧侶たちです。
内宮の御裳濯川の橋の修理の費用を勧進によって集めました。
本来は仏教のものである「勧進」。なぜ、神宮で?
それは神宮の「私幣禁断」という掟が関係しています。天皇以外の者が神宮に幣を捧げてはいけないという掟ですね。
しかし、中世、一般の参宮者が増加し、その掟は有名無実化していきます。
そして神宮周辺は参宮者の増加で経済的に潤い、神人、神役人(=伊勢御師たち=山田三方や宇治六郷)たちは富を有していました。じゃあ、なんでその富を遷宮のために直接使わないのよ? と疑問に思われるのかもしれませんが、使わなかったのではなく、「使えなかった」のです。なぜなら、彼らの富の源は参宮者からもたらされた「私幣」だったからです。
遷宮は本来、国家(公的な存在)が主導しなければならないものであり、「私」のお金で為すのはよろしくないことだったのです。この神宮周辺にもたらされた「私」的なお金を「公」的なものにするために、「勧進(寄付金を集める)」が必要だったのです。(参考:岡野友彦『中世伊勢神宮の信仰と社会』)
(★遷宮と仮殿遷宮は朝廷の許可が出てから行います。ところが幕府と朝廷は費用を用意できないから許可が出せませんでした。で、神宮の禰宜たちは「寄進等でこちらで用意したから許可をください」と注進していたのです。)
勧進といえば、忘れちゃいけないのが、
「慶光院清順」様です。
彼女に関してはウィキペディアをご覧ください。
『伊勢市史 第二巻 中世編』に基づいて編集されているので(2020.02.03現在)、信じちゃってもいいウィキペディアだと思います。
永禄六年の外宮遷宮実現は慶光院清順の多大なる貢献があったのです。
ちなみに、この永禄六年の外宮遷宮の際、毛利元就は出雲出陣中であったために、棟料を伊勢御師に立て替えてもらっています。
(冒頭で紹介したサイト記事の「信長以外の戦国武将は伊勢神宮に関心がなかった」というのはやはり同意できませんね)
慶光院清順が亡くなった後は彼女の後をついだ慶光院4代周養が勧進活動し、がんばりました。
天正十三年の式年遷宮のため、伊勢神宮の禰宜たちは周養や伊勢御師上部大夫(織田と師檀関係にあった)を通じて織田信長に協力を要請します。
信長はその要請に高額の寄進。それだけではなく「また必要になったら言ってね」と言う太っ腹。
しかし、天正十年、本能寺の変で信長は亡くなってしまいます。式年遷宮はどうなるのか……?
大丈夫です。心配御無用。
同十年十二月、信長の次男信雄が遷宮御用材の確保と諸役免除を神宮に保障し、そして信雄が南伊勢からいなくなった後は、秀吉が高額の寄進をしました。秀吉とも師檀関係を結んでいた上部大夫と周養の働きかけがあったのです。
こうして天正十三年、式年遷宮は実現しました。
以上、式年遷宮復活は信長の貢献はたしかにあったけどそれだけじゃないよ、というお話でした。
一部ネットで見られるような「信長だけが伊勢神宮に関心があった」「信長以前は参拝者がいなかった」という論調に違和感があったので今回は筆をとった次第です
研究者の方々の論文に基づいて書きましたが、、私のバイアスかかっちゃってる部分もあるかもしれません。
他サイトの言を信じるか、水上千年の今回のまとめを信じるかは貴方次第です。
参考文献
『伊勢市史 第二巻 中世編』
三井孝司氏「伊勢神宮と織豊政権ー式年遷宮造替費用をめぐる動きからー」(『近世の伊勢神宮と地域社会』所収)
河合正治氏「武士の伊勢信仰」(『歴史手帖』)
大西源一氏『大神宮史要』
岡野友彦『中世伊勢神宮の信仰と社会』
(※1)律令制が崩れてきた平安時代末、神領が安泰ではなくなってきたために寄進が必要になり私祈祷の受付を始めたという説があります。件のサイト様はその説と信長の話を混同して記事を書いてしまったのかもしれません。
(※2)久田松和則『伊勢御師と旦那—伊勢信仰の開拓者たち—』(平成16年)において、天正10年〜元和9年の肥前筑後の『御参宮人帳』の分析がなされています。天正10年から16年にかけて肥前筑後からの伊勢参宮が安定的に行われたのは、秀吉による九州平定、海賊停止令の発布、それに先立つ信長の関所廃止等によって治安がよくなり、交通体制の整備が行われ、遠路を移動する伊勢参宮にも社会的好条件が整って来た為と思われるそうです。(p48より)
(※3)永禄12年、上杉謙信は越後国内の領主たちに、仮殿遷宮費用として棟別銭三銭を課しています。なお、それ以上は各自の志次第としています。(三重県史資料編近世1 p164より)
(※4)仮殿遷宮とは
正殿や中に納められている装束などが老朽化などした場合、正殿近くの殿舎、あるいは仮に建てた殿舎に一時的に御神体を遷御し、その間に正殿を修復し、その後、御神体を還御すること。
雑に説明するとリフォーム中に神様に一時的に仮住まいしてもらって、リフォーム終わったらまたお家に戻ってもらう感じです。
一部ネットでは「戦国時代は仮小屋を拝んでいた」という誤解がありますが、違うってば!
あと、仮という字がつくから安上がりに感じるけど、仮殿遷宮もお金かかったみたい(・・;)
▲追記▲
伊勢の経済が衰退していたから式年遷宮も途絶えていたという誤解もある気がします。
本文でも述べたように式年遷宮の費用は、室町幕府が準備するべきものでしたから、伊勢の経済の問題ではないような…?
中世、伊勢の経済は急速に発展しました。でなければ、宇治山田の伊勢御師や大湊衆が財力を有していたことの説明がつきません。
それと、伊勢は伊勢神宮があること以外は何の特色もないみたいなこと思うかもしれませんが、
北畠から朝廷へ進上した物の記録を見ると、伊勢国が資源に恵まれた土地であったことがわかります。
……なんか、私、歴史警察になってます?
ヤダッ! 歴史警察になりたくない!
ナントカ警察がそのジャンルを衰退させるのよ!
でも!でもでも!
あああ、こうして歴史警察は生まれるのかぁああ!
とか言いつつ、いつもテキトーな扱いうける三重県らしくて、それはそれで「おいしい」という気持ちもある地元民です(*´ω`*)
まあ、フィクションは自由ですし、お互い自分が思うがままに楽しく創作ライフを送りましょう!
(底辺が何言ってんだとか言わないで)
▲追記その2▲
研究者の方々が書いたものを読んで私なりに室町〜戦国時代における伊勢の経済と伊勢神宮について簡単にまとめます。(私は頭が悪いので間違った解釈をしてるかもしれません。そのことをふまえてお読みください)
↓↓↓
朝廷や幕府といった「公的権力」によって式年遷宮の費用は調達されていましたが、しだいに朝廷や幕府の権力が弱まり、伊勢神宮の神領も押領されるなどして伊勢神宮の権力も弱まります。
しかし、蒙古襲来以降、天照大神は皇祖神としてだけではなく国主神としても認識されるようになり一般の参拝が増加します。そして入れ替わるように山田、宇治(山田や宇治の御師は商人でもある)など「町」(とくに山田三方)が力をつけます。彼らのネットワークは伊勢湾沿岸の各湊津、さらには伊勢国にとどまらず日本列島各地に広がっていて、各地からの参拝者の確保は彼らの経済的な利益につながっていました。
伊勢神宮の権力が弱まり、町が力をつけ、かえって参拝者がさらに増加するという面白い現象が室町〜戦国時代に起こったのです。
天文年間には、伊勢神宮でも「町」の経済的な観念を取り入れるようになり、多くの参拝者を受け入れる体制が整ったそうです。
「町」の力で神宮は支えられ、仮殿遷宮はできたのだと思います。そしてそれは正式な式年遷宮の復活につながったのではないかな。
お木曳が始まったのもこの頃だとされています。神宮周辺の町の人々の願いは遷宮の復活だったのです。
熊野古道の一つ、八鬼三道に清順上人供養塔と並べられている町石があります。この町石は伊勢御師をはじめとする山田、河崎、大湊の住人たちによって天正十四年から十九年にかけて寄進されたものだそうです。式年遷宮が復活した直後ですね。おそらく、神宮周辺の町の人々が熊野出身の清順上人と尾鷲周辺の木材供給、そして熊野の修験者たちの活動に感謝をこめて寄進したのだろうと考えられています。
信長の登場によって突然変異的に伊勢神宮参拝ブームが起きたわけではなく、その萌芽は御師や湊の商人たちの「町」の力によって育まれていたのです。
参考文献
伊藤裕偉『中世伊勢湾岸の湊津と地域構造』
伊藤裕偉・藤田達生編『都市をつなぐ』
西山克『道者と地下人』
『伊勢市史』
岡野友彦『中世伊勢神宮の信仰と社会』