戦国時代や室町時代の伊勢参宮について【改稿しました】
戦国時代や室町時代も多くの参拝者がいたよ、という話です。
式年遷宮が途絶えている=参拝者がいない、というのは誤解です。
※研究者の方々が書いたものを読んで私なりにまとめましたが、勘違いや間違いもあるかもしれません。
「おかげ参り」「お伊勢参り」
といえば、やじさんきたさん(東海道中膝栗毛)が有名なので江戸時代に流行り始めたという誤解があるかと思います。
ネットでちょっと検索してみても江戸時代よりも昔、つまり戦国時代とか室町時代における庶民の伊勢参拝に関する詳しい情報が出てきません。
このようなネットの世界だけで中世の伊勢神宮について知ろうとすると
「信長が登場するまでは大名も庶民も伊勢神宮に興味がなかったのだな。参拝する人もいなかったのだな」
と勘違いしてしまってもおかしくありません。
これは由々しき事態。
じゃあ、アタシが書くっきゃないわね!
ということで、中世の庶民の伊勢参拝について今回はお話しします。
今回の主な参考資料は大西源一氏の著書であり、昭和30年代のものです。最新の研究成果をふまえたものではない、ということを留意の上で読んでいただきますようお願いします。
■庶民は参拝してよかったの?
伊勢神宮には「私幣禁断」という掟がありました。
「幣」を神前に捧げてよいのは上御一人、つまり天皇だけである。
という掟です。天皇以外の皇族が「幣」を奉る場合は、「勅裁」が必要だったのです。
え、じゃあ、やっぱり一般庶民は参拝してなかったの?
と思われるかもしれませんが、
大西源一氏によると、そうではないのです。
大西源一『参宮の今昔』(昭和31年)p1
「古来私幣禁断と参拝禁止とを混同する説が行われ、庶民の参拝までも禁ぜられていたかの様に思う人のあるのは、甚しい誤りである。(中略)一般参拝を禁ぜられた様なことは、神宮の文献には曾て見えていないのである。」
と明言し、続いて多くの庶民の参拝があったことを示す史料を紹介しています。
平安時代の頃にはすでに一般庶民の参拝が多かったことを示す史料↓
『大神宮諸雑事記』
朱雀天皇承平四年神嘗祭の條
忽雷電鳴騒天大雨如沃、参宮人十萬、不論貴賤、恐畏迷心神
また鎌倉時代の『勘仲記』にも、参拝者が多かったことがうかがえる記録があります。
それによると、弘安十年の外宮遷宮のとき、おびただしい参拝者がいて、そのうちの不届き者がなんと御垣内に侵入し、天平賀(神器、神様に供える皿のようなもの)を破損してしまうという事件がありました!
その時の外宮の禰宜たちの注進状です。
「注進、當宮御遷宮日、為遠近参宮人等、奉破損天平賀間事
(中略)
凡遠近万邦之参宮人不知幾千万之間、所犯之輩悉不見分、(以下略)」
この注進状からわかることは、当時、遷宮の際に遠近、遠くからも近くからも「幾千万」もの参拝者が来ていたということ、あまりにも人が多くて犯行を見逃してしまったこと。(▲史料の誤読があったので一部訂正しました)
現代でも大きな寺や神社では、参拝者のマナー違反に職員さんが困惑するという話を報道などでたまに聞きますが、いつの時代も困った参拝者はいたのでしょうね(・・;)
時代を少しくだって、室町時代になると参拝者が更に激増します。
『碧山日録』によると長禄三年三月中務卿邦康親王が従者5000人を連れて参宮したという記録があるそうです。(宮本常一によると、貴人の参宮についていくと関銭を払わずにすむので皆ついていったのだろうとのこと)(※1)
他にも『寛正三年造内宮記』の遷御の條
「今度参詣之貴賤群衆目ニ餘斗也、仍絹垣ノ内ニ推入、(中略)」
という記録も。遷宮のとき、たくさんの参拝者が来て、白絹の幕の内側に入っちゃった参拝者がいたらしいです。
(遷宮のニュース映像で白い布で幕を張って祭主さまや神職が歩いている映像見たことありませんか。あの幕の内側に入るとかヤバいですね(;´д`)警備の兵とか当時はおらんかったんかい!
こういうヤバい奴がいた時代だと考えると中世の寺社が武装してたのは必要だったからでは……)
また他にも、
『長興宿禰記』長享三年三月の條
「諸国洛中群参、路次不通得、洪水爾宮川橋落、千数百人流死」
といった記録があります。宮川の橋が落ちて多くの参拝者が流れてしまったという事故です。
記録者による誇張はあるかもしれませんが、数多くの参拝者がいたことがわかる史料です。
それから時代をさらにくだって天文二十二年の記録を紹介しましょう。
「神宮年代記抄」に
「国司天祐冠落(歓楽)御祈祷、関アカル、諸国ヨリ旅人不知数、明ル年ノ春、貴賤群衆ス」
という記事があります。
北畠晴具(天祐)が病気になり、その回復を願って関所を開けたんですね。そしたら、数えきれないほどの旅人が各地からやってきたんだそうです。
■団体旅行だった!
ところで、当時は戦乱の時代。野盗もウロウロしてそうだし、旅行は危ないですよね。
ですから、単独で参拝するのではなく、集団で来たのです。団体旅行です。みんながいれば怖くない!
そして道中には無数の関所があり、関銭(通行税)を支払わなければなりませんでした。
巨額の旅費です。
一般ピーポーは個人で参宮するのは難しいですよね…。
なので、旅費を調達するために「参拝講」「伊勢講」を結成、毎年一定の金額をみんなで積み立てていたのです。そして、参拝講のメンバーから代表者をたてて送り出したり、メンバーみんなで出かけたのです。
※ただし、「講」の多くは中世末期、近世初期においては近畿地方のものだったという説もあります。講とは関係なく親しい人たちと個人的に参宮することも多かったのだとか。
■周防の大内氏が伊勢参宮に関するお祝い事を制限?!
参拝者が旅立つときには親類縁者や隣近所の人たちから餞別を受け、無事お伊勢参りをし帰ってくると、今度は参拝者がお祝いに自宅に招いてごちそうしたり伊勢土産を配ったそうです。
でも、このお祝いが盛んになって色々問題があったらしく……
なんと、周防の大内氏はこの餞別とお祝いの慣しを禁じたというのです。
『大内氏壁書』
参宮人餞別送停止事
諸人為参宮上路之時、餞送之儀可為停止之由、自今以後被定御法畢、其故者、依人専礼節、可輕神慮歟、然上者下向之時、亦土産之儀、可為停止、若不存知之人有其沙汰者、以此旨不可請取土産物之由、所被仰出也、仍壁書如件
文明十五年三月九日
わざわざ伊勢参宮のお祝い事を制限しなければならないほど周防において伊勢参宮が盛んだったことがわかります。
史料にあるように文明年間には一般庶民にも伊勢参宮が浸透していたのでしょう。
また、狂言『素襖落』にも伊勢参宮のことがネタになっているそうです。
以上、見てきたように戦国時代よりも昔から多くの一般人が伊勢神宮に参拝していました。
ただし、
「私幣禁断」とは本来は一般人の参拝を禁じるものであったとする研究者もいます。
禁止であったのに庶民が押しかけていつの間にかナアナアになってしまったということでしょうか?
古の時代に禁止されていたのか、はたまた、大西氏の言うように禁止されていたわけではなかったのか?
私がいくつか研究者の方々の本を読んだかぎりでは、「本来は一般の参拝は禁止であったが、中世以降、庶民の参拝は増加して私幣禁断は有名無実化していった」という考えが主流のようですね。
どちらにしろ、平安時代以降、一般庶民の参拝が盛んになっていったことは大西氏が紹介した史料によって確かなことだと思います。
■関所について
関所が多いと言うことはそれだけ通行する人が多かったということです。
大西源一氏によると「関の多いと云うことは、そこを通過する旅客が多かったことを物語っている。上記参宮街道上に多数の関が存在していたのを見ても、常時戦乱の世なるに拘わらず、如何に多くの参宮者が伊勢に歩を運んだかが容易に想像される。」
関所があるから参宮者が少なかったのではなく、参宮者が多いから関所が多かったのですね。そのへん、一部ネットでは関所があるから参宮者がいなくて神宮は閑古鳥だったという誤解ありません?
誰も来ないところに関所たてても意味ないよね…? 中には関所を避けて違う道を人々が通行するようになったところもあったかもしれませんが(・・;)
※関所をめぐっては前々回、伊勢神宮が悩まされていた話をしましたが、これは詳しくお話しようとするとヤヤコシイことになりますので、また別の機会のときにお話しいたします。
■信長の関所政策について
大西源一氏は『大神宮史要』p 253において
『神宮年代記抄』天正八年の條
「其比、日本ノ關ト云事ヲ、信長御アケラルル、諸國参宮ノ人々、前代未聞、道中田畠河山モ皆々満々ト云、」
と引用して紹介しています。
『神宮年代記抄』の記録者が、そういう印象を持っていたということは重要な意味があるのではないでしょうか?
その実態はさておき、「織田が関所を開けたおかげで参拝者がそれまで以上に増えた」という印象があったということです。
さて、戦国時代の伊勢神宮は外国人の目にはどう映っていたのでしょう?
ここからはイエズス会の記録を紹介していきます。
(三橋健氏「イエズス会宣教師の見た伊勢神宮―十六・十七世紀を中心にー」より引用、ただし註釈部分は省略)
■宣教師が報告!伊勢神宮めっちゃ参拝者多いぞ!
この伊勢の国には、天照大神とよばれる日本における重要な神の社がある。この神は日本に移住したといわれる最初の男と女との間に生まれた娘である。これが日本の統治権を得た最初の者であって、日本の国王はすべて彼女から出ている。この社には日本全国から巡礼者が集まり、莫大な寄進をもたらす。
ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』
この最高の神のもとへ、巡礼団をなして日本全国から絶えまなく集まってくる人々の多いことは、信じられないほどである。そして、彼等(巡礼者)は、身分の低い平民のみならず、誓願を立てた貴族の婦人や男性もおり、〔日本人は〕そこ(伊勢神宮)へ行かない者は、人間の数に加えてもらえないと思っているようである。
フロイス 年報1585年8月27日付 イエズス会総長宛書簡より
■イエズス会による恐ろしい計画……?
イエズス様は……彼(氏郷)に力と恩籠を与え、天照大神を破壊せしめ給うであろうと信じます。しかし、このことは、はなはだゆっくりと時間をかけて、しかも十分なる思慮がないとできないと思います。何故ならば、〔天照大神は〕日本全国から尊崇せられており、〔そこへは〕多數の巡礼者が群をなして絶えまなく〔参詣に〕やってくるからです。
……(中略)……彼〔氏郷〕は、数日前に伊勢国にもどった。彼は同国の半分を治めており、その領内にはおよそ十万人いるが、それらの人々を悉くキリシタンに改宗させる手段を講じようと決心し、イエズス会から、ばあでれやいるまんたちを求めているのである。(以下略)
フロイス 1585年8月27日付 イエズス会総長宛書簡より
蒲生氏郷は天正十二年、南伊勢五郡十二万石を与えられました。そして、天正十四、五年頃にキリシタンに入信します。
天照大神の鎮座する伊勢国の領主がキリシタンになったのです。これはフロイス的には期待大だったのでしょう。
きっとイエズス様はキリシタン氏郷に力を与えて、異教の神を破壊させてくださると、フロイスは信じたのです。
ひえええ……、破壊なんてやめてよ:;(∩´﹏`∩);:
イエズス会と氏郷の計画が上手くいってたとしたら、伊勢はキリシタンの町になってたってこと?
うーん、
伊勢の人たちをキリスト教徒に改宗させたとしても、たぶん、
「マリア様は天照大神様のお姿になって伊勢におわすんやに!」
と理解して相変わらず伊勢神宮を崇敬したんじゃないかな、という気がします。
まあ、氏郷がどこまで本気だったかはわかりませんしね。
「十万人もいるから改宗させるのは人手(宣教師)が足りなくて無理っすわ」
とかテキトーなこと言ってごまかしてただけかもしれません。
それと、イエズス会的にもどうだったんでしょうね。フロイスが1人で勝手に盛り上がって報告書に「破壊」とか書いちゃっただけかも……?
参拝者が増えた要因を考えるとき、忘れてはいけないのが「伊勢御師」の活躍です。
伊勢御師についても、もう少し詳しく書きたいと思っています。
また「室町殿参宮」も庶民の伊勢参宮への関心を高めた要因かもしれません。
(※1)永禄6年、吉田兼右の伊勢参宮にも数千人が途中から加わったそうです。
庶民が長旅をするには関所が多く煩わしかったので、神社仏閣を巡礼するためには権力者の行列に紛れこんで往来していたのだとか。(嶋田謙次『伊勢商人』p35より)
当時の庶民の図々し…じゃなくて、たくましさに驚かされると同時に「そんなに来たかったのか!」と伊勢神宮の人気ぶりにも驚きます。
戦乱の時代に旅なんて…(・・;)?
でも、第二次世界大戦中も国内旅行が流行っていたらしいので(さすがに空襲被害が大きかった末期は控えたと思いますが)、人間とは案外、そういうものなのかもしれません。
今回の参考文献
大西源一『大神宮史要』『参宮の今昔』
『史料纂集 古記録編 勘仲記 第6』
『十六・七世紀 イエズス会日本報告集 第Ⅲ期 第7巻』
三橋健「イエズス会宣教師が見た伊勢神宮ー十六・七世紀を中心にー」『歴史手帖』
甲斐素純『伊勢参宮日記を読む』
久田松和則『伊勢御師と旦那』
ttp://henro.ll.ehime-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/03/e98672a056fd68fd99cef0d981234ce7.pdf
伊勢神宮さまのサイトでわかりやすいページが公開されていました。
https://www.isejingu.or.jp/about/history/




