和睦の時期と関所のこと
前回のあとがきの続きです。
■北畠と織田の和睦
『信長公記』では和睦した日を「十月四日」、一方『勢州軍記』では「十月下旬」としています。
どちらが真実に近いのか?
『多聞院日記』をみると、『信長公記』の記述の方が正しいのではないかと……。
多聞院日記(国会図書館デジタルコレクションで読めます)
「五日 井戸へ大郎ニ書状遣之、竹下返事在之、去三日ニ勢州国司ノ城落了之由返事ニ在之、(以下略)」
神戸良政が後に編纂した『伊勢記』でも十月四日になっています。
おそらく、紀州藩に仕官した神戸先生はより多くの文献を閲覧できる立場になったことで再検証をし、十月四日であったと結論付けたのだとおもいます。
■伊勢の関所は廃止されたの?
『信長公記』では永禄十二年(1569年)の和睦の時、往来の旅人を悩ましていた関銭を今後は徴収しないようにと信長が言ったとあります。
ところが……
大湊衆が入港税を徴収していたという記録が元亀三年(1572年)と天正二年(1574年)の史料にありました!
ネットでは「信長が和睦後に伊勢国の関所を廃止した」「これにより伊勢の経済が活性化」
というような話を見かけますが、どうも正確には違うみたいですね。
信長は本当に伊勢国の関所を廃止したのか?
また廃止したことによって経済が活性化したという史料はあるのか?
織田と北畠が和睦した永禄十二年(1569年)から北畠一族が粛清された天正四年(1576年)までの間、伊勢国における関所の実態はいかなるものだったのか?
それらについて、どなたか論文を書かれておられないかと現在探しています。もしご存知の方がいらしたら感想欄にて教えて頂ければ嬉しいです。
参考文献
勢田川惣印水門会編纂『濱七郷』第二号
早川寿樹氏「中世伊勢湾をめぐる太平洋海運の展開」
『伊勢市史 二巻 中世編』
▲お詫び▲
前回、「新警固」について織田信長の関所廃止の政策とからめて話しました。が、「新警固」と伊勢神宮のゴタゴタに関する史料は文明年間のものであり、織田と北畠が和睦した永禄十二年よりも数十年も前の史料になります。そのため、信長の政策とあわせて紹介するのは不適切だと判断し削除しました。
伊勢神宮が長年、「関所」や「関銭」で悩まされてきたということを伝える意図で「新警固」のことを紹介しましたが、誤解を招くような文章になってしまったことを反省しております。
現代語訳をしていくなかで私自身が疑問に思って調べたり考察したことを後書きに書くようにしています。
浅学の素人ですので、付け焼刃の知識で書いてる感がいなめない部分もあろうかと思いますが温かい目で見守っていただけると幸いです。
私のような者がこうやって調べることができるのは、古文書の翻刻作業、出版にたずさわった方々や論文等を発表されている研究者の方々、地道に活動をされている地元の有志の方々、そして漢文体で書かれた『勢州軍記』を読み下し文にし註釈をつけた三ツ村健吉氏のおかげです。この場を借りて感謝し申し上げます。




