表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/69

君達生害の事

今回も残酷表現があります。十五才未満の方、落ち込みやすい方にはおすすめしません。

信長の伊勢攻めの箇所を訳すのは「三瀬の変」関連を訳し終わってからにします(時系列がややこしくなるので)。すみません。



具教が三瀬谷で討たれた同日に北畠一族も田丸で討たれました。信雄は朝ごはんを御馳走すると騙して具教の息子たちを田丸城に呼びました。

 その他の北畠の一族は、同じ日(十一月二十五日)の朝、田丸にて鐘を鳴らすのを合図にして一斉に殺された。

 

 まず、具教の次男・長野具藤、三男・北畠親成、娘婿の坂内兵庫頭(具義)は田丸城において殺害された。(三男・親成は興福寺東門院の稚児であった人である)

 三人はその日、信雄から朝食の招待をうけ田丸城にいた。皆で朝食をとり酒を呑んでいたところ、鐘が鳴った。

 それを合図に土方勘兵衛尉(ひじかたかんべえのじょう)立木久内(たちきくない)、津川源三郎、日置大膳亮(ひおきだいぜんのすけ)足助(あすけ)十兵衛、森清十郎等が襲いかかった。一人は組打ちし、一人は刺殺した。

 なんと哀れなことか。この方々はただ夢のごとくに消え果ててしまった。


日置大膳亮は「ひおき」じゃなくて「へき」じゃないの?と思われたかもしれませんが、三重県郷土資料叢書勢州軍記には「ひおき」となっていたので、そのままにしました。


>一人は組打ちし、一人は刺殺した。


これについては第9部分をお読みください。




勢州軍記には記されていませんが「北畠御所討死法名」には、このとき坂内具義の妻(具教の長女)小坂前とその息子・千松丸(二才)も殺害されたとしています。

……ですが、私はちょっと「北畠御所討死法名」の信憑性についてちょっと疑問に思っています(^_^;)


そして、この田丸城での粛清に関するウィキペディアの記述も色々疑問に思うことがあります。

ウィキペディアでは合図の鐘を鳴らしたのは信意(信雄)としていますが、勢州軍記にはそんなこと書いていません。

ウィキペディアが参考文献にあげている谷口克広氏『信長と消えた家臣たち』も確認しましたが書いてありませんでした。

いったい、何の資料、もしくは史料を参考にウィキペディアは編集されているのか謎です。

若い信雄が鐘を鳴らし、それを合図に粛清が始まるなんて創作意欲をそそられる話なんですけどね、資料/史料が不明なのがちょっと……


追記

信雄が合図の鐘を鳴らしたという記述のある資料がわかりました。

大西源一氏『北畠氏の研究』p183にありました。大西氏が何の史料に基づいて書いたのかはわからないのですが。(また調べます)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ