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鳥屋尾さんについて

 鳥屋尾氏についてお話したいと思います。


 『勢州軍記』の「大河内城の戦い」にて重要な役割をはたす登場人物である「鳥屋尾石見守」。そして、その後の天正四年、信長との謁見の場面に石見守と共に登場する「鳥屋尾右近将監」。鳥屋尾一族とは…?


ウィキペディアから一部コピペいたします。


「北畠晴具の頃より北畠家に仕える宿老で、智勇兼備の名将といわれ、伊勢国大湊の代官を歴任した。北畠家が織田信長に屈した後は、その子・北畠具豊(後の織田信雄)の家臣として付けられ、天正2年(1574年)の第三次伊勢長島攻めでは、北畠水軍を率いて戦った。しかし、その一方で従属を強いられている北畠家に忠義を尽くし、北畠一族が田丸城に監禁されると、北畠具房の室とその嫡子・昌教を救出し保護したという。北畠具教の弟・具親が伊勢で挙兵すると、それに従って北畠遺臣を糾合して挙兵するが、川俣の戦いで討死した。」



 このウィキペディアは出典不明の記述だらけなんです。


 おそらく「日本史学講座」「北畠氏学講座」という個人のサイト(http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake)の記述をもとに編集したのだと思います。

 このサイトは一見、北畠について細かく書いてあり正確な情報であると思わされるのですが、調べてみると間違いがあったり、出典不明な部分が多々あります。また、サイトの管理人による創作なのではないか?と疑わしい部分もあります。

 ネット上でのこのサイトの影響力はすさまじく、いろんな歴史系のサイトやブログの典拠になっています。

 ★★★

 あまり、批判みたいなことは言いたくないのですが……

 私は「日本史学講座」「北畠氏学講座」はちょっと問題アリなサイトだと思っていまして……。というのも、故人の名誉を傷つけるような作り話をこのサイトは垂れ流しているのです。

 このサイトは参考にしてほしくない、というのが私の本音です。

 北畠に興味を持っている方には知ってほしくて本音を書きました。

 ★★★

(あとで★★★~★★★部分の記述は消すかもしれません)



>北畠具房の室とその嫡子・昌教を救出し保護したという

>川俣の戦いで討死した

この二点はおそらく「北畠氏学講座」が発信源の根拠不明の情報です。


秋田県に北畠家の遺児(北畠昌教)が移り住んだという伝承があるのは事実ですが、「鳥屋尾石見守が田丸城から救出した」という話は出典不明です。

 北畠の本拠地旧美杉村の伝承をまとめた『美杉のはなし』という本には、石見守が「具教」の内室を霧山城から救出したという言い伝えが載っています。

 美杉村の言い伝えと秋田県の北畠昌教の伝承が混ざって、「石見守が田丸城から具房室と子を救出した」というお話がネット上で出来上がったのだと思います。


 また川俣の戦いで石見守が討死したという文献は私が調べたかぎりありませんでした。三瀬の変からおよそ五年後の天正九年に石見守は病死したという文献ならあります。


 それとウィキペディアと「北畠氏学講座」では右近将監は石見守の息子であるとしていますが、『勢州軍記』では甥となっています。(ただ、『多藝録』では石見守の子であるとしています。)


『多藝録』によると鳥屋尾満栄は

「称左京亮晴具時人姓藤原氏搢紳鷲尾氏之末裔也富永城主家老政所

(中略)

其後曰石見守石見守長子曰兵部少輔初称与左衛門尉次子右近将監初称小平太」(以下略)とのこと。


 具教の父・晴具の代から仕えていた人であり、左京亮と称していたが後に石見守と称するようになったと。そして姓は藤原であると。また、子の与左衛門は兵部少輔と称し、右近将監は小平太であると。

『多藝録』はどこまで信憑性があるのか私にはよくわかりませんが、

「左京亮」という名については、「鳥屋尾左京亮満栄」という差出人の書状がのこっているので合致します。

(https://www2.library.pref.nara.jp/nlmc/modules/xoonips/detail.php)

また、「伊勢国司諸侍役付」をみると「兵部少輔」「小平太」という名があるので、これも合致します。



『勢州軍記』も『多藝録』も同時代の史料ではありません。(多藝録の正確な成立時期は不明ですが、寛永七年に信雄が亡くなったことが記されているので、それ以降に書かれたのは確実じゃないかな、と思います)▲追記 多藝録は幕末の学者沢熊山の著作らしいです。▲


「史料」と呼ぶのではなく「軍記物」と呼ぶべきものでしょうね。


 これまた軍記物の『甲陽軍艦』に「とやのお石見」という人物が登場しています。高坂弾正による「天正五年」という記録が事実なら「同時代」と言ってもいい…ですよね……?

 

 『甲陽軍艦』の史料的価値には種々議論があるようですが、それはさておき伊勢国以外の文献にも石見守が登場するということは彼のポジションがかなり重要であり活発に動いていたということでは??

国会図書館デジタルコレクションで『甲陽軍艦』は読めます。石見守が登場するページです↓

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240963



では、次に書状や奉書を見ていきたいと思います。軍記物よりもリアルタイムな筆です。


『三重県史 資料篇 近世1』に当時の書状、奉書が載っています。見ると鳥屋尾石見守満栄の名がよく出てきます。


 手紙(書状)では自分の名前を「鳥石満栄」と略した書き方をしているのが可愛い……(え、可愛くないですか? 深〇ョンみたいで可愛いなぁと思うんですけど)



参考文献

『三重県史 資料編 近世1』

『三重県史 資料編 中世2』

勢和村史編集委員会『わたしたちのふるさと勢和』(小林秀氏執筆部分)

稲本紀昭氏「北畠氏発給文書の基礎的研究(上)(中)(下)」『史窓』

西山克氏「戦国大名北畠氏の権力構造―特に大和宇陀郡内一揆との関係から―」

次回は「信長参宮の事」。

北畠と和睦した信長は伊勢神宮に参ります。でも、ちょっとしたハプニングが……!



更新は来週の木曜日以降になります。

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