国司和睦の事
信長が大河内城を囲んでから数日経った。
北畠家臣に離反させようとしても、心変わりをする者がいなかった。ただ、野呂左近将監一人のみ国司家を裏切ろうとしたが、その陰謀はすぐにバレてしまった。そのため左近将監は城の中で殺害されたのであった。
こうなったら大河内城の兵糧を断つのがよいと考え、およそ五十日間、城を囲んだのである。
国司の勢権に鳥屋尾石見守という文武の才があり智略にすぐれた者がいた。
この人はすべての私心を捨て人のために尽くす、無双の家老であった。
石見守は兵糧攻めを予想していたので、初日から軍兵たちに粗食をさせ、国司父子も共に同じような食事をした。
そのため兵糧は足りていたのである。
信長はこれを聞いて、和睦をして戦を終わらせようとした。
織田掃部助を使者にして、城中に告げた。
「信長の息子を具房の養子にします。終戦にしましょう」
これをうけて国司家では協議した。
「これは信長の息子を人質にするということだ」
皆はこれに同意した。
朴木隼人正(北畠家幕下の豪族、大和国大宇陀郡松山の人)を遣わし、冬十月下旬、ついに和睦したのである。
敵をやっつけるよりも和を用いる方が良い。
「戦に勝つことは和に在る。軍勢の数ではない」
>野呂左近将監
この人物について調べたのですが、よくわかりません。
国司北畠に仕えていた野呂一族の一人だとは思いますが。『伊勢国司諸侍役付』にはその名があり、「阿坂合戦之節依逆心国司ヨリ害セラル」と記されています。
野呂一族は大河内城の戦いの少し前、二見の汐合合戦に一族総出で出陣し、多くの者が討死しています。左近将監はその生き残りなのでしょうか?系図を見ましたが、それらしい人物は見当たりませんでした。ほとんど記録が残っていない人物なのかもしれません。
「野呂」という名字の人物は『勢州軍記』にもう一人登場します
大河内城の戦いより十四年前の弘治元年、「野呂三郎」と「豊田五郎左衛門」が南伊勢の溢れ者数百人と共に徳政兵乱(一揆)を起こしたと『勢州軍記』にあります。この野呂三郎は初代波多瀬城主であり、豊田五郎左衛門と親しかったのだそうです。
神戸良政は「悪逆を企て非法の謀」と記していますが、子孫はこの一揆は義挙であったとしています。(参考『豊臣秀頼側室の出自につ いて』『一族の譜 東海三県の野呂一族』)
真相はわかりませんが、悪い人だったら数百人も集まらなかったんじゃないかな、と思います。(ちなみに、豊田を討ちとった中西清右衛門尉を助太刀したのが神戸良政の祖父・高島次郎左衛門です)
「野呂」という名字ではありませんが、野呂一族は他にも『勢州軍記』に登場します。
三瀬の変のあと、織田に従うのをよしとしなかった六呂木、山副、波多瀬は野呂一族の者たちなのです。とくに波多瀬は泣けるエピソードがあります。この話はまたいずれ、訳します。
私の妄想ですが、左近将監は私利私欲のために裏切ろうとしたわけではないんじゃないかなぁ。ちょっと調べただけですが、野呂一族は義にあつい一族だった印象を受けるのです。
汐合合戦で一族から多くの討死者が出たという悲劇、三瀬の変の後、北畠に命を捧げた波多瀬の忠義、名門北畠家滅亡の悲哀もあいまって、義にあつかったのではないかと思わされるのですよ。
(私は調べる対象を贔屓してしまうクセがあるので、そう思ってしまうのかもしれません)
>「これは信長の息子を人質にするということだ」
『勢州軍記』の著者神戸良政が後に編纂した『伊勢記』では、これを言ったのは鳥屋尾です。
鳥屋尾氏については、次回お話したいと思います。
>十月下旬
『信長公記』では「十月四日」、国司父子が城を明け渡したことになっています。
こんなに差があるのはどういうこと? 『信長公記』と『勢州軍記』、どちらを信じたらいいの?
『伊勢記』をみると
「十月四日 滝川左近将監一益所織田掃部助来大河内城取誓紙 或記云渡城者非御本所在為」
とありました。神戸先生、やっぱり「十月四日」なんですか???
それから、『伊勢記』では「或記云渡城者非御本所在為」(ある記録によると城は渡さず御本所(具房のこと)はそのまま城にいた)とありますが、『信長公記』では「国司父子」は「笠木坂ない」というところに移ったと記しています。
『伊勢記』の続きを読むと
「大御所及長野殿父子移坂内城 或記云移笠木坂内云云」
とあり、具教と長野具藤(具房の弟)が坂内城に移ったのだと言っています。(「父子」て、そっちか;)
もしかしたら、この頃からすでに大御所(具教)と御本所(具房)の間には溝ができていたのかもしれません。
それにしても神戸先生、「或記」じゃなくて、ちゃんと出典を書いてほしかった……




