魔虫谷戦の事
()内は『三重県郷土資料叢書 第39集 勢州軍記 上巻』の脚注によります。
滝川左近将監一益、十月上旬、信長の陣に馳せ参じた。
「何日間もかけてこの城を攻めていらっしゃるのは、悔しく思います。私が攻めて行って一度の勝負をいたしましょう」
一益は伊勢衆を率いて西の方にある魔虫谷(大河内城の本丸と西の丸の間に北から入りこんだ深い谷)から攻め登った。
城兵は隙なく、弓鉄砲を撃った。
滝川勢は皆ことごとく撃ち殺され、谷は人馬の死体で埋め尽くされた。
しかし、一益はこれで諦めることはなかった。滝川勢は一筋に攻め登り、ひたひたと塀まで迫り乗り越えようとするところまで来た。
城兵はあらかじめ数万の竹槍を作ってあった。先端をとがらせ、油を塗り火であぶったものをそれぞれ手に持ち、突き捨てたり、投げ落としたりした。
滝川勢は傷を負い、谷底に討ち落とされた。起き上がって再び攻め登ろうとするも城兵は隙がなく、竹槍で突き落とされた。
そのため、耐えきれなくなった滝川勢は引きあげたのである。
>十月上旬
『信長公記』では九月九日に茶筅丸に家督を譲る約束をして、十月四日に国司父子が大河内城を明け渡したことになっています。
一方、『勢州軍記』ではまだ戦は続いていますよ―!
大河内城の戦いの現代語訳、もう少しだけお付き合いください。




