船江夜伐の事
国司は信長勢の陣を夜討ちをするようにと、ところどころに命令していた。しかし、皆は信長勢が大軍であることを恐れ、夜討ちに出る者がいなかった。
あの船江の溢れ者どもだけが、同九月上旬、丹生寺(松阪市丹生寺町)に夜討ちした。
市場、寺井(松阪市笹川町寺井)の北である。そこは美濃国大柿城主氏家常陸入道卜全の陣所だった。
夜更け、不意に討ち入った。火を放ち、鬨の声をあげ攻めかかった。大垣衆は追い立てられるも、蜂屋般若助らは名乗り出て応戦した。
そして高嶋椋右衛門によって討ち取られたのである。その他、大垣の屈強の者三十六名が討死した。船江衆はそれぞれ各人がその首を取り勝鬨の声をあげて帰ったという。
>「溢れ者」
神戸先生、自分の御先祖たちのことを「溢れ者」て。
「溢れ者」という言葉のために私の脳内における船江衆のイメージ画像がひゃっはーな感じになってしまいます。
うーん。もしかしたら、「溢れ者」という言葉は現代のニュアンスとはちょっと違うのかもしれません。単に非正規の戦闘員とかそういう意味なのかも?
>高嶋椋右衛門
長覚寺の系図(東京大学史料編纂所のサイトで閲覧できます)によると、この人物は次郎左衛門勝政(神戸良政の祖父)の弟です。系図から引用します↓
「勝光 高島椋右衛門尉 天文十九年生母同勝政童名智千代 永禄八年元服号高島吉次郎十六歳 同十一年給領地 同十二年大河内乱船江衆夜討丹生寺時獲蜂屋般若助首十九歳 元亀二年高名 天正間屡有武功 天正十二年流牢有船江 同十六年四月九日蒲生郷成與力石黒喜介伏見喜太郎両人〇勝光喧嘩死 三十九歳 葬於浄泉寺」
(〇は読めなかった字です。また他にも読み間違えている箇所があるかもしれません)
椋右衛門が討ち取ったという蜂屋般若助は『信長公記』にも出てきます。天文二十二年の四月十七日、赤塚の記事にその名が見えます。信長公記では般若助の助は「介」という表記です。(国会図書館デジタルコレクションで『信長公記』は読めます。)
もし同一人物ならば、蜂屋般若助は十六年後、伊勢国で討死したことになります。
※長覚寺の系図について
勢田道生氏によると、神戸良政(能房)の近縁の者によって作成されたものか、もしくはその系図をもとに作成されたものと考えられるそうです。(「神戸能房編『伊勢記』の著述意図と内容的特徴」より)神戸家と高嶋家について詳しく記されています。
今回の後書きの執筆にあたって、竹島平兵衛氏『豊臣秀頼側室の出自について』も参考にしました。この本は高嶋家について詳しく書いています。




