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船江打出(うちいで)の事

()内は『三重県郷土資料叢書第39集 勢州軍記上巻』の脚注によります。

 そもそも、南伊勢の通路は船江通りである。そのため、船江城を守る本田方に加勢したのは、小原おはら冷泉れいぜい方(松阪市宇気郷小原、近衛道公の子孫)、名張北村方(北村仁蔵、名張谷侍)、同じく名張の西岡方(西岡団之助)、ならびに弓一揆(弓を主武器とした武装集団)、十文字一揆(十の文字を旗印とした軍団)、両一揆の内一手一揆である。


 織田軍が木造城にて作戦会議をしたとき、渋見城主(津市渋見字城)の乙部兵庫頭は進み出て言った。


「船江は屈強の兵がいます。そう簡単に落とせる城ではありません」



この船江というのは秋山右近将監の領地であり、諸侍が集まる所だった。そして、その大将が本田である。


本田美作守みまさかのかみは先ほどの乙部家の婿である。美作守の子息・小次郎親康ちかやすは幼少であったため、伯父の右衛門尉が守っていた。


 信長は枝よりもその幹を断つ、つまり、枝である船江城は攻めずに国司父子がいる幹である本拠地・大河内城を攻めることにしたのである。そして山沿いの道を通って南へ進んだ。


 

 二十六日の夜、先に行っていた兵(先陣)を阿坂城を攻めるために呼び返したときのことである。

 

 船江の本田勢、森・中西・山邊・高嶋・公門くもん・斉藤以下、まがり(松阪市曲町)と深長ふこさ(松阪市深長町)との間にある小金塚(松阪市小金付近、旧伊勢寺役場跡)に打ち出て、織田軍を蹴散らして分捕り、いくつかの首を討ち取って功名をたてた。

 この活躍により船江衆は名声を得たという。


 また翌日、二十七日夜、織田軍が大河内城に近づいたとき、船江衆は昨夜のごとく小金塚に打ち出て織田軍の行く手を阻んだ。

 しかし、織田の先陣は用心して待ちかまえていたので返り討ちにしたのだった。

 このため、船江衆は敗けて一志郡の住人長藤十郎左衛門尉(本田の家来)、その子息善七郎、薬師寺芳清ほうせい法師以下、あまたの者が討死したという。

 敵の不意を撃つときはこちらの有利になるものだが、しかし、この夜の打出は船江衆の不覚であった。

 というのも、山邊次郎右衛門尉は打出を止めたのだが、公門六郎右衛門尉は昨夜(二十六日夜)の打出に参加できなかったことを悔いていたために二十七日夜に打って出たのであった。


 また、その後、九鬼水軍が船から陸に上がろうとしたところを船江本田勢、曽原天花寺てんげじ勢が黒部(櫛田川河口海岸地帯)において夜討ちしたという。

>弓一揆、十文字一揆

郷土史家の本によると、船江衆の構成員は正規の武士ではない一揆が多かったのだろうと。


>両一揆の内一手一揆であった

ごめんなさい。この部分、どう訳せばいいかわかりません。

原文は「両一揆之内一手一揆也」

ほぼそのまま(汗 

「一手一揆」の意味がよくわからず、上手く訳せませんでした。すみません。

「両方の一揆がひとつのチームにまとまった」

というような意味かな? と考えたりもしたのですが……、なんか、よくわかんないです。


>小次郎親康

29話「木造合戦の事」にて、本田親康は対織田戦で大活躍した、と述べましたが……すみません、語弊がある書き方でした。『勢州軍記』においてはこの時、親康は「幼少」だったようです。なので「大活躍」というのは言えないかもしれません。『伊勢国司記略』では伯父右衛門尉が代わりに下知したとしています。

 『勢州軍記』では「幼少」であり伯父・右衛門尉が守り役であったようですが、『伊勢国司諸侍役付』によると、親康と右衛門尉は同一人物であり対織田戦で活躍したと思える記録がのこっています。↓

「本田佐京亮親康 一本右衛門尉

清和源氏吉良今川之末葉飯高郡舟江城主御旗頭知謀武略之勇士也

織田信長大河内合戦之時小金塚本陣ヲ取左京亮手勢五百騎計信長三万五千余騎之大軍ヲ夜討ニシ数万之敵ヲ討取大軍ヲ追散信長是時暁ニ老希ヲ遁ケリ 船江城主」


ちょっと数字盛ってない?と思いますが、『勢州軍記』『伊勢国司記略』とは違う親康の記録もあるよ、ということで。


>乙部兵庫頭

伊勢国司諸侍役付(内閣文庫蔵)によると

「源氏三位中将頼政末葉阿濃郡津乙部 イニ城主 住人従騎 具成属 長野家与力 

北畠国司阿濃郡一身田専修寺堯恵僧正ハ乙部兵庫頭源藤政カ婿也其家督堯真僧正ハ信長ノ姉婿」

とのこと。

▲『伊勢国司諸侍約付』では「堯真僧正ハ信長ノ姉婿」と伝えていますが、これは誤伝で正しくは「堯真僧正は信長の姉婿の娘婿」でありましょう。ややこしい話ですが、犬山鉄斎の娘が堯真の妻なのです。▲


 船江の本田家とも婚姻関係を結び、津の専修寺とも婚姻関係を結んでいるとは、実は乙部家は伊勢の戦国史におけるキーパーソンなのかもしれません。(長嶋一揆との戦いを考えると、専修寺は信長にとって重要な寺だったのではないかと思います)

 その兵庫頭が木造城における作戦会議で信長に「船江城は落とせませんよ」と進言したのは親戚を守りたい一心だったのか、それとも「うちの婿をなめたらあかんで」という遠回しなアピールだったのか。


★乙部氏について

史料上で確認できる初期の人は乙部御厨の地頭の「源幸貫」だと考えられるそうです。その後は建武二(1335)年、乙部源次郎政貫という人が安濃津で合戦に従事している史料があります。ちなみに安濃津は北朝方であったようです。また時代は飛んで長禄二(1458)年、長野満高の神宮代官職押領事件に際し、幕府から乙部氏に神宮祭主大中臣清忠への合力を指示する史料が残っています。

 乙部氏は安濃津の権力者であったと考えられますが、残っている史料が少なく、実態はよくわからないそうです。(参考:伊藤裕偉著『中世伊勢湾岸の湊津と地域構造』p54~55)

それから谷口研語『美濃・土岐一族』によると、土岐源氏の舟木正尚の嫡男孫五郎康正が乙部家の養子に入ったという系図があるそうです(『続群書類従』巻128舟木系図)

 この系図によれば舟木氏は貞治二年(1363)に北畠氏の旗下になったということですが、、、谷口研語氏によれば系図の信用度は低いとのこと。南北朝の頃の話ですから、不明瞭なことが多いんでしょうね;


>高嶋

船江衆のメンバーの高嶋さん。

『勢州軍記』の著者・神戸先生のお祖父さんですよ!


 郷土史家の本によると神戸先生のお祖父さん・高嶋次郎左衛門勝政は神戸友盛の娘・鈴与姫(織田信孝の妻)のいとこにあたるそうです。(鈴与姫は高野家からの養女だという説あり)

 

 和歌山県の長覚寺に伝わっていたという「北畠源氏系図」(東京大学史料編纂所のサイトで謄写本が閲覧できます)によると、

「勝政 高島次郎左衛門尉 母乙部某女号小○後天文十年生於船江 弘治二年元服号高島宗七郎○年高名討○○十六歳為本田家与力奉国司 永禄十一年嗣家督廿八歳 同十二年守船江高名 天正三年以後属信雄朝臣数度有武功。天正十二年守松島高名幷助本田千勝丸 六月以後蒲生氏郷領南伊勢 勝政流牢船江 文禄二年奥州中山城主蒲生郷可招勝政給二百石 同三年五月為妻子迎登勢州自道痢病帰船江五月廿六日逝 五十四歳 法名〇〇浄泉政〇〇清虚 葬於浄泉寺」

(〇は字がつぶれちゃってて読めなかった箇所です。また旧字や異体字は現代のものに変えて引用しました。※私が読み間違えているところもあるかもしれません。あしからず)


 系図によれば、高嶋勝政の母は乙部家の娘です。やはり乙部家は船江衆と深い関わりがあったのでしょう。


> 同十二年守船江高名


永禄十二年、船江にて功名をたてたということは、対織田戦に勝政も参加していたということでしょう。このとき、おそらく二十九歳。


>同三年五月為妻子迎登勢州

勝政は蒲生家に仕えることになります。そして妻と子を連れて伊勢から奥州に向かう道中病気にかかり船江に戻り亡くなったとの記述です。

 おそらく、この時の「子」が『勢州軍記』の著者・神戸良政の父、「政房」だったのでしょう。

 ちなみに、政房の母(つまり神戸良政の祖母であり勝政の妻)は公門六郎右衛門尉の娘です。公文(公門)氏は船江衆にいましたね。


(※勝政が亡くなった経緯の訳がおかしかったので直しました2019年11月15日20時45分)



 「船江打出の事」は著者の親類縁者の功績を記録したものなのでしょう。

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