日置大膳亮の諱について
すみません、また日置大膳亮ネタです。
日置大膳亮
私が今まで見てきた文献には彼の諱が載っていなかったのですが……
図書館で『多藝録』をちょっと見たら
「日置直房」
と書いてありました!
「直房」!
だからなんだ、と思われるかもしれませんが、私的には大膳亮の諱を初めて見たのでテンション爆上りだったのです。
信雄と似たような名前なのかな、と何となく思っていたので、「直房」という名を見た時「え、意外な名前~!」という驚きというか喜びがありました。
「北畠家」の家臣って感じが強い名前だと思うのです。
「直房」の「房」は北畠家当主だった「北畠具房」からもらったのだろうと。
三瀬の変で主家を裏切ったとされる大膳亮ですが、「直房」という諱を貫いたのだとしたら、彼はあくまで「北畠家」の家臣として忠実に動いたのだと思います(ていうか、思いたい)。
北畠家当主であった信雄の命令に従ったまでのことだと……。あ、妄想です。
さてさて、以前私は大膳亮と高松左兵衛の関係について、「高松左兵衛の妹が大膳の妻だったのでは?」という考察(妄想)をしましたが、
多藝録をみると
「称大膳亮姓藤原氏高松左兵衛督弟飯高郡細頸城主娶公文氏女」
とありました。
え~、大膳亮の妻は公文氏の娘なのか……。
『勢州軍記』に「公門六郎右衛門尉」(船江衆)という人物が出てくるので、公文氏とは船江衆のメンバーでしょうか。
そして、多藝録では日置の姓は「藤原氏」であり、高松左兵衛督の弟であると。
うーん、謎。
「高松」といえば、信長に降った「北勢四十八家」に「高松」という家があったので(滝川出身の事参照)、何か関係があるかもしれませんね。
たとえば、
信長に従うことをよしとしなかった高松左兵衛督が北勢から南伊勢に逃れて来て北畠家の「客殿」になったということは考えられないでしょうか?
そして、日置大膳亮と何らかの関係(血縁者か、娘か妹が婚姻関係にあったとか)があったのかもしれません。
(あくまで、私の妄想ですよ(^_^;)
それから、大膳亮のパパについての記述がありましたよ!(これもテンション爆上り!)
「越前守者蓋直房之父也」
ええ! 『勢陽雑記』(第26話「日置大膳亮についてわかったこと」参照)で「御岳左近」の祖父だと記されていた「日置越前守」は大膳亮のお父さんなの?
ということは御岳左近は大膳亮の甥っ子ということ? けっこう近い親戚関係!
やはり、紀氏(小倭の武士)と日置大膳亮はかなり近しい関係だったのでしょう。
(※あくまで素人の考察です)
▲追記
信雄は一時期「信直」という実名だった可能性があるそうです。もしかしたら、大膳亮の実名は信直から一字もらったのかもしれませんね。
直房は信直と具房を合わせたような感じの名ですね。
『多藝録』の著者は誰なのか、私にはわかりません。書かれた時期については、おそらく江戸時代中期以降に書かれたものじゃないかな、と思います。
そして『多藝録』の信憑性は、なんとも…。
でも、大膳亮の諱が載っている文献がこれしかないのです。
ちなみに、やはり多藝録にも大膳亮が弓の名手だったとう記述はありませんでした。前にも言いましたが、弓の名手というのは和田竜先生の創作なんでしょうね。
▲追記
『多藝録』の著者がわかりました。幕末の神戸藩の学者、沢熊山です。
次回はいよいよ船江衆の登場です。がんばって来週中には更新したいと思います。