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阿坂城攻めの事

 信長卿は阿坂、岩内ようちに使者を遣わして和睦しようとした。

 岩内の返事は「大河内おかわち城が和睦するならば我々も従います」というものだった。


 一方、阿坂城は和睦を断った。


 そのため、信長は先に行かせていた軍を呼びもどして、二十七日、阿坂城を攻めた。


 城主大宮入道、その子息・大之丞だいのすけ、同じく九兵衛尉、並びに沼田某、澤衆澤大炊助さわおおいのすけ、河合三郎兵衛、樫尾かしお、横山以下は浄眼寺を自焼して待ちかまえた。寺を焼いたのは敵の陣を置かせないためである。

 この寺は大空だいくう玄虎大師の開山で、国司家の菩提所である。また、この山は古くから名山として知られていた。袖岡山という。

 古い歌に

 「三渡みわたりの裾に流るる涙川 袖岡山の雫なりけり」

とあるが、これは袖岡山を詠んだものである。


 織田家の先陣、木下藤吉郎秀吉は阿坂城を囲んで攻め込んだ。


 城の中の者たちはしばらく防戦した。大宮大之丞は大力の弓の名手であり、矢を次々につがえて手早く射った。

 秀吉軍は勢いにおされて尻込みしてしまい、進むことができなかった。そして秀吉は左ひじを射られたという。


 阿坂城は奮戦したものの大軍を防ぐのはやはり苦しい。そのため大宮家の家老・源五左衛門尉、同族の條助の二人は心変わりをして、鉄砲の火薬に水を入れた。

 

 このため、大宮入道は降参をして、城を開け渡して落ちのびた。


 信長卿は滝川勢をこの城に入れ守らせたという。

 

>澤衆

国司北畠の先陣といえば「澤」と「秋山」。彼らは大和国の人たちです。伊勢の国司北畠は大和にも影響力があったということです。

大和国と北畠の関係についてはまたいずれお話したいと思っています。(大和の興福寺になぜ具教の弟はいたのか、などなど)


>袖岡山

阿坂山のことですね。この歌は「蓮胤」という人の作だそうです。阿坂山は古くから名所として知られていて、歌に詠まれていたとのこと。

>涙川

三渡川のこと。川の水源は阿坂山にあるのだそうです。

勢陽雑記で「三渡」をみると、

「小津村と松崎の間なり。参宮の往還也(以下略)」とのこと。京都や伊賀方面から伊勢神宮に参るために通る場所だったのでしょうか。


>左ひじ

勢州軍記では秀吉は左ひじを射られたとありますが、文献によっては「左太股」だったりします。どっちなんでしょう?

 この秀吉の阿坂城攻めは「絵本太閤記」「真書太閤記」でも書かれていて、見せ場になっています。


絵本太閤記より少しだけ抜粋します↓

「さしも勇みに勇んだる木下が勢、死傷の者数を知らず。大之丞一人が矢先に射しらまされ、進みかねて見えたりける。藤吉郎是を見て大に怒り、鐙踏張あぶみふんばり大音にて、弓射る敵は教経なるか為朝なるか

唯一人の矢先に怖れ、見苦しくも攻口を退く事のあるべきや。懸かれや懸かれや進め進めと、扇を開き味方を招き、真先まっさきに馬を駆け出せば、木下が士卒此下知に勇気を増し(以下略)」


大之丞一人の矢に秀吉軍は悩まされ進めなかった。しかし、秀吉は勇ましく「弓を射るあの敵將は教経か?為朝か? お前らたった一人にビビってんじゃねえよ! 進めえぇえ!」と鼓舞して自ら馬で先頭を駆けて行き、大之丞の矢に当たってしまいます。このとき、大之丞は胸元を狙っていたのにタイミング悪く弦が切れてしまい左ひじに当たったのだという秀吉の強運エピソードにもなっています。うーん、ドラマティック。



>源五左衛門尉

大宮家の家老、ということですが……

この人物の名字がよくわからないのです。『勢州軍記』そして一説によれば『勢州軍記』のベースのひとつだと考えられる『木造記』では名字が書かれていません。

それから『北畠物語』『多藝録』では「大宮」という名字なのですが、斉藤拙堂の『伊勢国司記略』では「遠藤」となっています。(『勢州軍記』と『木造記』の関係については山田雄司「『木造記』の形成」をお読みください)

『勢州軍記』の著者・神戸良政が後に著した『伊勢記』をみると、この人物の名字は「結城」となっています。


「大宮」、「遠藤」、「結城」……


どれなの?


ネット上ではこの人物は「遠藤」という名字で近江の浅井家家臣、遠藤喜右衛門の縁者であったという話があります。

おそらく伊勢新聞社編纂の『三重・国盗物語』と横山高治氏の『北畠太平記』の記述を元にしているのだろうと思いますが……、なんというか、その、小説なのか研究書なのかよくわからないていで書かれている本でして……(けっして批判ではありません。どちらも大変面白く読めて勉強になる本です)

遠藤喜右衛門の親戚説の史料(元ネタ)は何なのかよくわからないのです。


 横山高治氏の『北畠太平記』の参考文献に『三重・国取物語』がありました。おそらく横山氏は『三重・国盗物語』の記述にもとづいて遠藤喜右衛門の親戚説をとりいれたと思われます。

 そこで私は『三重・国盗物語』に載っていた参考文献、『伊勢軍記』『木造記』『勢州四家記』『勢州軍記』『蒲生軍記』などなどを確認しました。が、源五左衛門尉が浅井家臣と親戚だったという記述はこれらの文献にはありませんでした。


 うーん、私の調べ方が悪いのかもしれませんが、史料・文献(元ネタ)が不明です。もしかしたら、、文献にはのこっていないけれど、口承で地元にのこっていた話なのかもしれませんね。ひょっとしたら、未翻刻のものに記されていて、素人の私が探しあてるのは不可能な件なのかも?



 それから、「結城」説について。

 もし、この源五左衛門尉が「結城」だったならば……

この人物は勢州軍記において天正伊賀攻めの記事内で再び登場します。

伊賀の国綾郡川合に名木がありました。その木を勝手に切ってしまい、信雄の怒りを買い誅せられたという人物に「結城源五左衛門尉」なる者がいるのです。

かつて味方を裏切った者が、たった一本の木の為に命を失うとは、なんという因果なのでしょう。まあ、本当のところは「結城」なのか「遠藤」なのか「大宮」なのか、わからないんですけね。


>大宮入道は降参して、城を開け渡して落ちのびた


『絵本太閤記』では大宮入道は「大和に領地を与える」と騙され、大和に向かう道中、待ち構えていた力士たちよって殺されてしまいます。




▲お詫び▲

『絵本太閤記』の引用箇所を当初『甫庵太閤記』と混同してしまい、小瀬甫庵の名誉を傷つけるような文章を書いてしまいました。他者を貶め誤ったことを書いた事、お詫びします。

『絵本太閤記』『真書太閤記』『甫庵太閤記』の一部をコピーしたものが私の怠惰な性格故に整理整頓しておらず、混同してしまったみたいです。申しわけありません。






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