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序文~真面目に訳します~ ※追記あり2019.12.20

この連載を初期からお読みになっている方はお気づきかと思いますが……

迷走しています。

初期設定は「ゆるく、テキトーに」というモットーだったのですが(誰も読まないだろうと思っていたし(^_^;)

なんか、その、責任を感じてきたというか、ちゃんと訳さないといけないんじゃないかな、という気持ちが芽生え、途中からは真面目にやり始めました。

で、今、自分で訳した序文を読むと、テキトーすぎてゆるすぎて恥ずかしい……

自分で言うのもなんですが、私は根暗なタイプなんですよ。なんというか、地味子が無理をして明るくしている痛々しさがあって……

というわけで、序文を訳し直すことにしました!

もちろん、訳し直したいと思った理由はそれだけではなくてですね。

序文には神戸先生の出自に関することが書いてありまして、これがけっこう重要なんですよ。伊勢攻めに関する記事を訳す前に、もう一度きちんと訳すことにしました。

勢州軍記序


 「中」というものは、偏らず変わらずに今でもあるのです。左に近づいたら右によります。


 伊勢の国は、日本東西の真ん中にある、中つ国です。

 ですから、天照大御神は伊勢にお姿を現し、この日本を護っておられるのです。


 中つ国であるために、代々、兵乱が多かったのですが……

 世間ではよく「一に播磨、二に越前、戦がないのは伊勢の国(※戦が多いのは播磨でその次に越前が多い、逆に伊勢は平和だという意味)」と言いますが、諸家の記録を見てみますと、欠けていて不明なところが多いのです。また、誤りも多く、伊勢国の諸侍はその誤りを悲しんで嘆いて言っています。

「近年の伊勢には出世した大名がいないがために、この誤りを改めることができないのだ」

しかし、私が思うに、大名がいなかったわけではありません。

 北畠信雄、長野信包、神戸信孝、滝川一益の四将は伊勢侍の家です。皆、威勢が強大で天下の権をろうとしておりました。

 そのために羽柴秀吉公に滅ぼされてしまったのです。彼ら四将の衰退により出世の大名がいなくなりました。

 ですが、彼ら四将と共に武名をたてた人はこの天下にたくさんいるでしょう。

 今、様々な家に伊勢侍は仕えております。


 あの信長の記録(信長記)には間違いがあります。その間違いを見て諸家の伊勢侍は苦々しく思っておりますが、その間違いを指摘し正した者はおりません。

 その間違いというのは、永禄八年の春より十一年の秋に至る伊勢攻めに関することで抜けていることが多いのです。

 伊勢攻めのことはなく、大河内おかわちの乱のことは記してはあるものの、間違いだらけです。

 また、秀吉の記録等も見てみますと、抜けていることが多いです。


 私の父・神戸政房は元は勢州の生まれです。

 後に蒲生家に仕え奥州に住んでおりましたが、豫洲よしゅう(伊予の国)に移りそこで亡くなりました。

 父は日頃からよく諸家の記録を調べておりました。その間違いを書きとめ、伊勢侍の由来を書いた物を私に授けました。私はその書をもとに諸家の記録を検討しております。

 また、蒲生家には伊勢侍が多く仕えておりましたので、私はその人たちと親しくして話を聞いて記してあります。

 

 私自身は奥州の生まれで豫洲に暮らしましたが、主君の蒲生忠知が亡くなった後、豫洲を出て流浪の身となりました。

 そして、先祖の本国である伊勢の国に来たのです。

 私の先祖は元は北の方の神戸に住み、後に南の方の船江に移り住みました。ですから、私も先ずは神戸に行き、そこから船江にやってきました。

 南北各地の老士を訪ね、詳しく話を聞き、すべてを書き終えました。これを名づけて『勢州軍記』としました。

 『勢州軍記』の趣旨は、天下の興亡、勢州の兵乱、伊勢侍の由来、士卒の賢愚を記すことにあります。

 

 さて、伊勢の国の南方を守護していらっしゃる紀州太守・徳川頼宜様が勢州の兵乱の歴史をお知りになりたいと松坂の奉行にお尋ねになり、そのことを私に求められました。

 そこで私はこの書を略して大体の事を記して献上しました(これが『勢州兵乱記』)。

 この書は略していない、すべて書いてある書です(これが『勢州軍記』)。

 

 どうか、お願いです。

 天下の皆さん。子どもたちに教えてほしいのです。

 世の興亡の歴史を見て、人の賢愚を知り、文武の大事なことを知り、善を用いて悪を捨てること。

 とくに、伊賀、伊勢の国の人達、この国の兵乱の歴史を知り先祖のことを知ってほしいのです。


 神戸良政、謹んでこれを記録します。

 



蒲生家が断絶し、牢人になってしまった神戸良政は先祖の地である伊勢にやってきました。

先祖の足跡をたどるかのように、まずは北部の神戸に入ります。そしてその後、松坂の船江にやってきました。

そうです、以前紹介した船江衆のいた船江です。

神戸良政の先祖は船江衆の一員だったのです。対信長戦で大活躍した船江衆の中に神戸良政の先祖がいました。これが船江の高島氏です。


神戸良政の父、政房は元は「高島」という名字でしたが、親戚である「神戸」の名を継ぎました。

この「高島」氏と「神戸」氏の関係について説明しましょう。

竹島平兵衛著『豊臣秀頼側室の出自について』によると、北畠から養子にはいった神戸具盛が北畠家臣高島氏の女を側室に迎えたそうです。この人は山路氏の女として側室になったのだとか。

 そしてこの人が生んだ神戸政光が母方の実家・高島家から養子・勝政をもらい「高島」を名乗り始めたということですが……

この勝政が本家・神戸利盛との関係があまりよくなかったらしく、後に実家がある船江に舞い戻ったという経緯があるそうです。

竹島平兵衛氏によると「高島」氏というのはもとをたどると近江佐々木氏の家柄で、伊賀の仁木氏に属していたそうですが、仁木義長が没落後に国司北畠の家臣になったのだとか。


が、長覚寺の系図を見ると竹島平兵衛氏の著書とは話が違う部分があります。

長覚寺の系図によると勝政は養子ではなく、神戸政光の実子のようです。また、神戸本家と関係が悪く船江に移ったのは勝政の父・政光ということになっています。勝政の父、神戸政光が母方の名字である「高島」を名乗り始めたことになっています。それから、「高島氏」の出自についても、系図では信濃源氏の流れをくむ一族であり、元は一色氏に仕えていて応仁以後、神戸氏に仕えたそうです。

何が事実なのかは今となってはわかりませんが、高島氏が神戸氏と縁のある家だったのは確かなのでしょう。


親子関係を簡単にまとめるとこうなります。

政光(神戸具盛の子、母高島氏)—勝政—政房—良政


※なぜかWikipediaをはじめネット上の記事では勝政の名が政勝になってるのを見かけます。神戸録を確認しても勝政となっているのでネット上の記事は誤りだと思うのですが…


★長覚寺の系図を参考に簡単な系図を作成しました。

挿絵(By みてみん)

※長覚寺の系図によると高島氏は神戸氏に仕える前は一色氏に仕えていたらしい。


★自治体史や長覚寺の系図を参考に私なりに作成した略系図↓ これで親戚関係わかりますでしょうか…?

挿絵(By みてみん)

※神戸利盛の姉妹の母は不明なので、とりあえず同母にして作成しました。



 神戸氏と高島氏の関係はややこしいですが、とりあえず遠い親戚だということです。

 


 著者の出自は勢州軍記の執筆モチベーションのひとつであったようで、序文には興味深いことが書かれています。

 それは「信長記」について不満をもっていたらしいということ。

 この件に関しては神戸良政が後に編纂した『伊勢記』にも小瀬甫庵の信長記に対する考えが書かれています。


「後慶長末小瀬甫庵道喜以太田和泉守牛一之日記作信長之記此書不詳誤多…」

と、太田牛一の日記を元にした信長記の誤りが多い事を指摘し、「就中伊勢事誤多我父政房憤之…」伊勢に関する記述の誤りが多い事に父政房が怒っていたことを伝えています。

 神戸良政や父政房は江戸時代の初期の人。戦国の世の当時者やその近親者がいた時代です。

 そういった人たちの視点からの伊勢の戦国を見る事ができるのが勢州軍記なのでしょう。



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