表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/69

信長発向の事

北畠家と木造家がゴタゴタしている間に信長は畿内の三好の問題にかたをつけたようです。そうなると次は勢州を攻めはじめます。

 同年秋八月二十日、信長は勢州の桑名に向かい、密かに美濃、尾張、伊勢、近江の軍兵を召集した。合わせて七万余りであった。


 信長は「鷹狩」と称して、一両日かけて地勢の状況を調べ、南の方へ進軍した。これは国司家の不意を討つためである。

 そもそも「鷹狩」というものは鳥を捕ることが目的ではない。地勢を調べること、あるいは民の様子を見に行くことが鷹狩の目的である。つまり、鷹狩というものは大将がすることであって、士卒がするものではない。


 同二十三日、先陣の滝川の兵ならびに関の兵が小森上野城を押さえ、織田掃部助と工藤の兵が今徳山城を押さえて、諸軍を通した。

 小森上野城を守る藤方御所と、今徳山城の奥山常陸助は国司家への忠誠を発揮しようと織田軍と一戦まじえようとしたが、織田軍は攻めなかった。信長は藤方、奥山との合戦を避けたのである。

 そして信長は木造城へと入り、一両日、作戦会議をした。


 同二十六日、信長は木造城を出た。木造家の源城寺と柘植三郎左衛門尉に案内させ山沿いの道を通った。道中、民家にことごとく火を放った。


 さて、先に行っていた軍(先陣)が八田城を包囲しようとした。それをうけて八田城を守る大多和兵部少輔は防戦態勢をとった。

 ところが、その朝は霧が立ちこめ、晴れなかったのである。そのため、信長の先陣は八田城を攻めることができなかったという。

 勢州軍記にも信長公記にも書いていないのですが、八田城を攻めようとした「先陣」は秀吉であったという伝承が地元にはあります。秀吉は霧に悩まされ、結局、八田城を落とせなかったという伝説です。八田城は別名「霧山城」と言います。地図を見ると川の近くにある城です。霧が発生したというのは事実だったんじゃないかな、と思います。

 秀吉が唯一落とせなかった城は忍城だけだ、という話を見かけますが、もし八田城の伝説が本当なら秀吉が落とせなかった城はもう一つあることになります。


 ところで、この伊勢攻めに関する『勢州軍記』と『信長公記』の記述は微妙に食い違っています。阿坂城攻めの日にちが一日ずれていたり、どっちを信じたらいいのやら……。

 もしかしてだけど、太田牛一はこの時の伊勢攻めには参加しておらず、伝聞で書きとめたものなのかな? 

 まあ、『勢州軍記』の方も伝聞で書かれたものでしょうし、どちらが真実なのかはわかりませんね(^_^;)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ