木造合戦の事
今回は残酷で悲しい話です。
木造家は国司家と縁を切った。
このため国司家は憤り木造家を攻めることにしたのである。
まず、木造家の家老・柘植三郎左衛門尉の人質を殺害することにした。
柘植の九才の娘とその母を共に人質にとり、本田(船江の城主・本田美作守)が預かっていたのである。
本田の侍である中西甚大夫がこの母娘を木造城に近い雲出川近辺へと連行することになった。
中西の召使が母娘の宿所に行き、騙して連れ出そうとした。
娘は玉の様に美しく、また賢い娘であった。
この時、賢い娘は悟ったのだ。母に向かって涙を流しながら別れの挨拶をした。
「来世にてお会いしましょう」
見る人は皆、泣いたという。
召使は娘を背負って木造城に近い雲出川近辺へと連れてきた。
中西は娘の首に縄をかけた。そして、掛け声と共に縊り、尖らした大木で串刺しにして、木造城に向かって見えるよう磔にしたのだ。
この状況を見聞きした父母の心中を思うと、なんと哀れなことか……。
その後、澤、秋山以下国司勢が木造城を攻め、数度、合戦をした。
木造城に海津喜三という鉄砲の名人がいた。海津が鉄砲を撃つと国司勢は毎回、軍勢を崩され逃げた。このため、秋山の侍は坂甚次郎以下、多数が討死した。
この頃は鉄砲はまだ少なかったという。
木造城は屈強の城であり、しかも北の方から織田掃部助、工藤、関、滝川が木造に加勢したため、攻め落とすことが出来なかった。
九才の子が犠牲になるなんて、悲しい話です。和田竜先生の小説『忍びの国』では柘植が重要な人物として登場しますが、妻子を北畠によって殺されたことを恨みに思っている設定でしたね。
『忍びの国』では柘植の妻と娘二人とも犠牲になったという話でしたが、勢州軍記では娘一人だけが犠牲になっています。
ちなみに『伊勢記』では別れの挨拶をした相手は母ではなく「乳母」となっています。
(※ウィキペディアの柘植保重の項目、出典不明な記述が多いですね。小説『忍びの国』の設定や個人のブログを参考に編集したのではないかと私は疑っています。)
娘が処刑されてしまった父母の悲しみ。
木造軍記によると、柘植は娘の遺体を翌日の晩に奪い返しました。そして木造氏にゆかりのある宝福寺の僧侶によって弔われ葬ったとのこと。
>船江の城主 本田美作守
船江衆はめちゃくちゃ強い奴らです。本田美作守の息子・本田親康は対織田戦で大活躍します。しかし、彼らの存在は「信長記」「信長公記」ではなかったことになっています。
本田親康や船江衆はこれから出番が増えてきますので、これからの現代語訳をお楽しみに。(いつも更新が遅めで申し訳ありません)
>鉄砲はまだ少なかった
えっと、この頃は永禄十二年。まだ鉄砲はそんなに出回ってなかったの? この頃には鉄砲を使いまくってるイメージ(あくまでイメージ)だったんですけどね。北畠家臣録を見ると「鉄砲組」もあったみたいですし、どうなんでしょう?




