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木造謀判の事

本日、二回目の投稿です。


今回は滝川雄利が登場します。

 同年夏五月、木造家父子(木造兵庫頭具政、具康父子)が謀反。そのため、伊勢国は再び非常事態となる。


 かの木造御所は、北畠三位中将晴具の子息であり、具教の弟である。

 

 具教の弟がなぜ木造家の当主なのかというと……

 顕俊あきとし(初代国司顕能の第二子)七世の子孫である木造家具世ともよ(俊茂か?)は、晴具の妹婿であった。

 具世には娘はいたが息子はいなかった。そのため、晴具の息子を養子婿とした。この養子婿が具教の弟・木造兵庫頭具政こづくりひょうごのかみともまさなのだ。


 この木造具政の正室には子がなかった。そのため、側室が生んだ息子、木造左衛門佐具康に木造家の家督を譲った。

 その後、父具政は戸木へきに居住し、戸木御所と呼ばれた。


 そして戸木御所・具政は……、ほんの少しの不満のために兄・具教とのよしみを忘れ、北畠家を裏切り信長に属したのだ。

 

 木造家には源城寺に出家していた者がいた。この人は出家の身とはいえ文武に長けていた。世の中の政治的状況を見て、木造家の家老・柘植三郎左衛門尉に相談し、木造家が北畠家を裏切るように謀った。


 この源城寺の人は木造家具政の庶子である。

 

 後に還俗して羽柴下総守雄親と名乗り、世にその名を知られた人である。


 

>具世

『三重県郷土資料叢書第39集 勢州軍記上巻』の脚注によると「俊茂か、北畠物語には家具、真善院系図には具茂となっている」とあります。

原文は「故木造家具世為顕俊七世之孫而晴具卿之娣聟也」です。

三ツ村氏の読み下し文は「故に木造家具世は顕俊七世の孫にして晴具卿の娣聟なり」です。


「家具」なのか「具世」なのか……うーん。


そもそも、勢州軍記では「具康」「具政」「長政」を混同して記述していると思われます。木造記においても同様です。


>源城寺


この人の出自がよくわからないのです。

『三重県郷土資料叢書第39集 勢州軍記上巻』の脚注には、

「俊茂の庶子源浄院玄主(北畠家臣帳)出家して源浄院―木造家の香華所―の住職となる。後還俗して滝川一益の女婿となり滝川三郎兵衛とか羽柴下総守を名乗る。源城寺家はいずれにも見当たらない。」としています。


原文には「彼源城寺者故木造家具 之庶子也」

となっています。空白部分は何だろう? 木造家の誰が源浄院の父親なの?


この部分、三ツ村氏の読み下し文は

「彼の源城寺は故木造家具政の庶子なり」

としています。「政」の字が原文にはないのですが、推測であてはめたのでしょうか?

脚注では俊茂の庶子としているのに…?


(続群書類従に収録されている勢州軍記を確認したら「木造家具康之庶子」となっていました。ますます誰の子かわからない。2019.10.29追記)



父親は誰なのか、 謎です。


勢州軍記の著者、神戸能房が晩年に完成させた『伊勢記』をみると


「彼源城寺者故木造家庶流兵衛尉連枝也」


と記されています。「兵衛尉」の連枝、と書いてあるけど「兵衛尉」って誰なんでしょう? 謎です。

とりあえず、源浄院は木造一族だったということでしょう。

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