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南方諸城の事

 また、信長が侵入するであろう路では、今徳山城を奥山常陸介が守り、小森上野城(津市小森上野字城山)を藤方御所(慶由、北畠一族)が守った。

 

 木造城(久居市木造町字城)は木造御所(木造具政、北畠具教の実弟)が守った。


 八田城(別名霧山城、旧一志郡嬉野町八田字城山)は大多和兵部少輔が守った。


 阿坂城(松阪市大阿坂桝形)は大宮入道が守った。


 船江城(松阪市船江町、現在の浄泉寺境内)は本田右衛門尉が守った。


 曽原城(旧一志郡三雲村城屋敷、旧三雲村役場付近)は天花寺てんげじ小次郎が守った。


 岩内ようち城(松阪市岩内町)は岩内御所が守った。


 それぞれの城に諸侍は加勢した。


 

 ところが、三好一党が畿内で反乱を起こした。信長は先に京都へと攻め上がったために、勢州は攻めなかった。


 この時、足利家、織田家に対し、和睦の話をしていれば、北畠は子孫繁昌したものを……。


 北畠は政治的な判断をあやまってしまった……。このために、北畠は滅ぶこととなるのだ……。

>大多和兵部

相模の三浦氏の子孫です。

相模と伊勢って遠いのに? なんで?

と思われるかもしれませんが、海上交通をメインに考えると結構近いのです。

八田城は三浦盛時の築城という云われがあるようです。そして近くに先祖の三浦義明のために建てたという義明寺もあります。


三重県には「三浦」という名字の人が多い気がします。私の同級生にも何人かいました。


※追記

八田城主と伝わる大多和氏の由来書が松阪市で発見されたみたいです! 研究が進むといいですね。http://www.yukanmie.com/news/10909



>大宮入道

信長記や太閤記には「含忍斉」となっていますが、「含仁斉」としている資料もあります。




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