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日置大膳亮についてわかったこと

何度もごめんなさい。

『一志郡史』『一志町史』に「日置大膳亮」のことが詳しく記されていたのです。備忘の為というのもありますが、読者様にも報告をしたく、投稿しました。

『一志町史 上巻』p505~506参考


「日置大膳亮の先祖は日置荘に居住した日置治行の一族で先祖の日置蔵人は正平十五年、北畠顕能とともに近江に出陣し戦死した。その子大蔵太夫も大和に出陣、孫の式部少輔は安濃郡の長野城で戦死。

 このように代々国司に仕えて吉野朝廷に尽くした北畠譜代の家筋である。大膳亮は北畠の侍大将であった。」

 


 最初から『一志町史』をチェックしたらよかった……。載ってますやん。


>先祖は日置荘に居住した


 日置荘とはどこなのでしょうか? これも『一志町史』に載ってました。↓


p52

「今の高岡村日置を中心とする地である。萬寿寺領の荘園で『萬寿禅寺記』『西園寺文書』『満済准后日記』等に見えている」



高岡村は旧一志郡にあった村みたいです。現在は津市。地図で確認すると雲出川の近くです。

古くからあった荘園みたいですね。


私は、「日置一族は北畠氏と共に伊勢に移ってきたのでは?」と考察しましたが……


元から伊勢にいた、日置荘の土着の豪族だったのかもしれませんね。


そして南北朝の動乱の頃、南朝について北畠の家臣になったんじゃないかな?(素人の考察ですよ!)



 大膳亮について『一志町史』はこう記述しています。↓


p505

「大膳亮は豪勇無双をもって名高く、永禄十二年、信長が大河内城を攻めた時、池田信輝の大軍を向うにまわし、家城主水と先陣を争うなど、目ざましい働きぶりを見せ、この合戦のすんだ後、信長は「日置、家城が出陣しても相手になるな」と恐れる程の大打撃を与えた。」


 べた褒めですね。この辺、私の勢州軍記現代語訳でもいずれ触れたいと思います。



 そして、私が前々回、興奮していた「すずめ坂」についても『一志町史』は載せています。↓


「今日でも日置には「とのかいと」「とのさまやしき」、「涼坂」という地名│(俗称)があって古老は日置大膳一族の居住したところだという。

 美杉村川上にも大膳亮の城跡あり、その子孫この地に残るという。」


 「涼坂」は「すずめ坂」のことですよね、多分。一志町日置にはそういう伝承がのこっていたのでしょう。感動。地名は歴史を伝えます。



 また、「紀氏」についても触れておきます。前々回、「北畠家臣帳」に大膳亮は「村上源氏 (紀氏)」

という謎の記述があることを報告しました。


 この「紀氏」を称する一族が勢州にはいたのです。


p508

「小泉左近将監籐能  小泉藤能、紀貫之第十四世の末裔、小倭大仰の住人で、真盛上人の父親である。伊勢国司北畠権大納言源教具に仕え、大仰字城谷の山上に城を築きこれによった。

 『勢陽五鈴遺響』に「小倭七党各紀氏ヲ称セリ」と述べているところをみると小泉氏は小倭七党の中の有力な一メンバーであったことが察せられる。」


 小倭おやまとの武士(土着の武士かな?)は紀貫之の末裔なのだそうです。

 ちなみに小泉藤能の息子、真盛上人というのは偉いお坊さんです。安濃津の西来寺を建てた人で、後土御門天皇や畠山義就とも交流があったスゴイ人なんだとか。(『一志郡史』より)


 「紀氏」と「日置氏」が何か関係があるのか……?


 天正四年、北畠具教は暗殺されてしまいました。その後、具教の弟、具親が信雄に反旗をひるがえして挙兵します。

 そのとき、具親にしたがって挙兵した者のなかに「小倭の武士」がいたのです。

 この事について『勢陽雑記』はこう記述しています。↓


「天正四年丙子、御岳左近が楯籠し御岳の師をは、本田左京進、木造左衛門佐、滝川三郎兵衛尉、柘植三郎左衛門尉押寄責戦ひ、(中略)城主左近ハ伊賀の国へのかれ、国司生害の後も、義を守りけるとそ、此左近ハ日置越前守か孫也、御岳村に住領しける故に、御岳といひし也、国司数代の家臣と云云」


 小倭の武士、「御岳左近」は「日置越前守」の孫だというのです。(『一志郡史』より)


 ということは、紀氏を称する小倭七党と日置氏は縁戚関係を結んでいたのかもしれません。それで、「北畠家臣帳」において不思議な記述がなされたのではないでしょうか?

(素人の考察ですよ!)


※小倭……現在の津市白山町の北西部 (ウィキペディア参照)



追記

『三重国盗り物語』によると、日置氏は木造氏の関係で村上源氏を称するようになったが元来は「紀氏」なんだそうです。いったい木造氏とどういう関係だったのかはわかりませんが。










▲33話「日置大膳亮の諱について」もあわせてお読みください。小倭の武士御岳左近や高松との関係について、あらためて考察しています。

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