勢南籠城の事
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今回はひたすら、南伊勢の諸家の紹介をしていきます。()内は『三重県郷土資料叢書 勢州軍記』の脚注です。合併前の旧名になっているところもありますが、御容赦を。
永禄十二年 己巳 春正月、信長は勢州の南方を攻めようとした。
これによって、伊勢国は非常事態となる。
日置大膳亮は、他所が焼き滅ぶ状況を見て、細頸城を自焼し、大河内城に馳せ参じた。
南方諸家も、城に立て籠もった。
まず、大御所黄門入道不智(北畠具教のこと。黄門は中納言の異称)、御本所具房(北畠家当主のことを御本所と呼ぶ)父子は、大河内城に立て籠もった。
それに伴った諸家は以下の通り。
長野御所(長野具藤)、その他の北畠一族は、田丸御所、大河内御所、坂内御所、波瀬御所、向御所(不明)、東御所(※北畠左衛門督政成、一志郡美杉村東御館住)、大坂御所、八下御所(嬉野町中郷八下)、薗御所(多気郡宮川村萩原園)
森本飛騨守(木造三位顕俊の庶子、一志郡嬉野町森本)、その子息・彦十郎。
方穂民部少輔(国司の親族、多芸御所重臣)、
林備後守(北畠一族、大和・日牧城主)、その子息・新丞、
侍大将には鳥屋尾石見守、その子息・与左衛門尉、同族の右近将監、
水谷刑部少輔、その子息・藤次郎、
安保若狭守(阿保城主、青山町)、その子息・大蔵少輔、
岸江又三郎(松阪市岸江町、安保氏の一族か)
安保右馬允(安保若狭守の同族、勢和村の笹山城主)、
磯田彦右衛門尉(丹生俣の人)、
佐々木源左衛門尉、その子息・半右衛門尉、
今川左馬允、
野呂左近将監、
山本左馬允(北畠家臣帳によれば、山本左京亮)、
長野九郎左京亮(多芸御所侍大将)、
朴木隼人正(北畠幕下豪族、大和宇多松山の人)、
日置大膳亮(多芸御所侍大将)、
玉井兵部少輔、その子息・新次郎、
星合左衛門ノ尉(一志郡三雲村星合)、
稲生勘解由左衛門尉、その同族の与四郎、
家木主水佑(一志郡白山町家城城主、従騎大将)、
石橋治部大輔(一志郡一志町)、
田上左衛門太夫(一志郡一志町八太城主)、
榊原弥四郎(久居市榊原)、
山崎式部少輔(度会郡大宮町阿曽城代)、
真柄宮内丞(一志郡美杉村)、同族の修理進、
久保参河守(松阪市)、
杉山菅右衛門尉、
山室十郎左衛門尉(松阪市)、
服部孫次郎(一志郡美杉村)、
柴山長九郎(一志郡美杉村)、
水野勝次郎(一志郡美杉村)、
大西平三郎(多気郡多気町相可)、
三瀬蔵人(度会郡大台町三瀬)、
三竹五郎九郎、
大内山但馬守(度会郡大宮町阿曽)、
山崎大炊助(一志郡一志町)、
阿曽弾正忠(一志郡一志町)、
下村仁助(松阪市)、
潮田長助(四五百森砦大将)、
神戸治部入道玄務(一志郡嬉野町)、
熱田源兵衛入道玄斉(尾張の人)、
そのほか、
小胡曽方(関一族、四日市市小胡曽)、
出江方(多気郡勢和村)、
湯原方(久居市榊原湯原)、
宮田方(一志郡白山町山田野、もと伊賀侍)、
縣松井方(松阪市)、
須賀佐波方(一志郡嬉野町)
志貴湯浅方(不詳)、
神條中村方(不詳)、
寺卿王相方(不詳)、
黒田中津方(松阪市)、
菅瀬渡邊方(久居市)、
伊勢寺久瀬五郎左衛門尉(松阪市)、
牧野方(度会郡玉城町)、
加藤方(松阪市)、
廣田(一志郡美杉村)、
佐藤(一志郡美杉村)、
江馬(度会郡宮川村)、
唐櫃(宮川村)、
明寿(宮川村)、
栗谷(多気町)、
峯(飯南郡飯高町)、
森、
乙来栖(飯高郡飯南町)、
田引(飯南郡飯高町)、
家野(飯南郡飯高町)、
奥村(松阪市)、
福本(飯南郡飯高町)、
粟野、
閼伽桶(飯南郡飯高町)、
滝野(飯南郡飯高町)、
馬場(松阪市)、
五箇(多気郡勢和村)、
六呂木(松阪市)、
波多瀬(多気郡勢和村)、
山副(松阪市)、
谷(度会郡玉城町)、
三田(一志郡白山町)、
満賀野(一志郡白山町)、
新(一志郡白山町)、
岡村(一志郡白山町)、
福田山(一志郡白山町)、
臼杵(久居市)、
吉懸(吉縣)(久居市)、
堀内(一志郡嬉野町)、
楠見(久須見)(不詳)、
堀山(一志郡白山町)、
以上紹介した諸家以下、南五郡(一志・飯高・飯野・度会・多気)の軍兵が信長の伊勢侵攻にかまえた。
城の外構に柵を二重に備え付け、兵糧を蓄え、城を固く守ったという。
鳥屋尾石見守について
読み方がよくわからないですよね。『三重県資料叢書 勢州軍記』では「とやお」となっています。
あと、鳥屋尾石見守のウィキペディアに私は異議ありです!
ウィキペディアでは「右近将監」は石見守の息子となっておりますが、勢州軍記では「甥」となっています。
また、石見守は「川俣の戦い」で討死したとなっていますが、そのような資料・史料は私が調べた限りでは見つけられませんでした。
おそらく、ウィキペディアが参考にしたサイトは「日本の歴史学講座」「北畠氏学講座」というサイトだと思うのですが……、このサイトはその昔、某掲示板の戦国板で電波サイトとして名が知られていたようなのです……。
※東御所(六田館)ついて
()内に記した脚注では北畠政成が城主となっていますが…、この北畠政成は確かな史料が残っておらず、私的には伝説に近い人物ではないかと思っています…
地元の旧家に伝わる系図によると政成は教具の子孫で、天正四年に多気(多芸)を守り死んだとのこと。史実かどうかは不明ですが、そういった話は伝わっているようです。(田上松太郎『多気史蹟』より)
また東御所(六田館)の城主は藤方朝成だという説もあります。
>今川左馬允
この人物は何者でなぜ勢州軍記に記されたのか?
今川義元の家系と何か関係あるのか? よくわかりません(*´Д`)気になりますね。
>星合左衛門ノ尉(一志郡三雲村星合)
星合氏が北畠一門であるというのは確認できないのだそうです。
参考「星合氏の概略」https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/Q_A/detail.asp?record=121
勢州軍記でも「星合左衛門ノ尉」を「御所」としてではなく「諸家」として挙げていますね。
他にも挙げられている「諸家」の人たちはよくわからなくて気になる人がいますね。なぜ尾張の人が???などなど。