日置大膳亮について。へき? ひおき? ※追記あり
信長と北畠具教の直接対決の話を訳す前に、日置大膳亮について気になることを調べたので紹介します。自らの備忘のために書いたというのが本当の理由だったりしますが、興味をもたれた方にぜひ読んでいただきたく。
※24話、26話、33話も合わせて読んでいただけると嬉しいです。後で調べたことを書きました。とくに33話「日置大膳亮の諱について」は御岳左近や高松左兵衛との関係について、あらためて考察しています。
日置大膳亮
ぱっと見て、何と読みます?
私は「ひおき」と読みます。『三重県郷土資料集叢書 第97集 勢州軍記』を見ても「ひおきだいぜんのすけ」とフリ仮名があります。
ところが、インターネットで検索すると、「へき」となっているサイトが見られます。
私の推測ですが、和田竜先生の『忍びの国』に登場する日置大膳亮に「へき」とフリがあるからではないかと思います。和田先生の作品が発表されて以降のサイト記事に「へき」となっているものが多いので……。
江戸時代のフィクション作品である「真書太閤記」などでも「へき」とフってあるので、和田先生の作品が初ではありませんが…
三重県の方、とくに津市以南の方なら「ひおき」という読み方になじみがあるのではないでしょうか?
クラスメイトの「日置さん」は「ひおきさん」ではありませんでしたか?
かに本家の社長さんは日置大膳亮の子孫でいらっしゃるそうですが(かに本家のサイトより)、やはり読みは「ひおき」のようです。ちなみに、北畠の本拠地であった津市美杉村のご出身です。
日置大膳亮とはどういった人物なのか?
では、北畠の家臣であったという大嶋内蔵頭が天正十年六月に書き記したといわれる『北畠家臣録』を見てみましょう。この『北畠家臣録』は写本がいくつか伝わっていて、どれが原本に近いものなのか私にはよくわからないんですけれども(そもそも江戸時代に創作されたものだという話もあります;)、今回は『松坂市史 史料篇』から『伊勢国司分限帳』の記載を紹介します。↓
「同高松左兵衛督弟飯高郡松ヶ崎細クビ城主 日置大膳亮」
残念ながらフリ仮名はなかったのですが(^_^;)
>高松左兵衛督弟
弟? お兄ちゃんがいたのね。お兄ちゃんの名は「高松左兵衛督」と。
家臣録には大膳亮の隣に兄・高松左兵衛督の名があります。
「藤氏御摂家高松院後大河内ノ旗頭 高松左兵衛督」
>藤氏
ということは日置大膳亮は藤原氏の流れをくむのでしょうか?※
>御摂家高松院後
高松院?
国史大辞典で見ると「高松院」とは二条天皇の中宮とのこと。藤原氏の娘のようです。二条天皇の中宮ということは戦国時代より随分昔の人ですね。
>高松院後
高松院の「後」とは、末裔という意味かな?
高松左兵衛は藤原の流れをくむ高松院の子孫?
家臣録にある兄の名が「高松」ということは元は「高松」だったが、いつからか「日置」と名乗るようになったのでしょうか?
▲津市に「高松」という地名があるので、大膳亮の兄はその土地を名乗っただけで、高松院の末裔というのは後付けかもしれません。▲(2024.5.28追記)
(※日置大膳亮は藤原氏、村上源氏、紀氏の説があります。『三重国盗り物語』p252には本来は紀氏であるが、木造氏の関係により村上源氏を名乗ったという話を載せています。)
津市一志町に「日置」という地名があります。私の予想ではそこが領地であったから「日置」と名乗るようになったのではないかと(あくまで、素人の予想ですよ!)……ちなみにそこは「ひおき」と読みます。
では次に、嘉永四年(1851)(←江戸時代ですね)に完成したという『勢国見聞集』(荒井勘之蒸 筆)を見てみましょう(参考・服部哲雄編『北畠氏の哀史』)。
荒井勘之蒸は北畠関係者を調べてその名を記したようです。
「諸士方」という項目があり、「左イロハ附ニテ可探高下無差」と但し書きされています。
いろは順に北畠氏家臣たちの名が書かれています。
「日置」を探しましょう。い、ろ、は、に、ほ、へ、……
むむっ? 「へ」のところには、「日置」はありません。
では、「ひ」を見てみましょう。……「大膳亮」の名はありませんが、おそらく同族であろう「日置左京大輔」「日置五郎」等の名がありました。
やっぱり、「へき」ではなく、「ひおき」じゃないのかなぁ。少なくとも江戸時代には「ひおき」読みだと認識されていたのだと思います。
ちなみに「大膳亮」の名は「多気侍屋敷名付」という項目に「大名 日置大膳亮」とありました。
また、『松阪市史 史料篇 勢国見聞集』には、人物之部に「日置大膳亮 日置村の人なり」とありました。先程述べたように、やはり「地名」から日置と名乗ったんじゃないかな。
なぜ、『忍びの国』の大膳は「へき」となっているのか――?
和田竜先生の『忍びの国』では日置大膳亮は「弓の名手」でしたね。おそらく、「へき」としたのは弓道の「日置流」のイメージと重ねあわせることによって、キャラクターに彩りづけたのでしょう。(和田先生! ちがったら、ごめんなさい!)
『忍びの国』で日置大膳亮を知った人は逆に「ひおき」読みの方がモヤッとするのかもしれませんね。
うーん、戦国時代の伊勢国にいた日置大膳亮は日置流の関係者なのかどうか……。
ところで、大膳亮が「弓の名手」であったという史料が、どこにあるのか、私にはちょっと見つけられなかったんですよね……。
「弓の名手」というのは、和田先生の創作なのかな?
誤解のないように言っておきますが、私は和田先生の作品を批判していませんよ! 創作はあくまで創作として楽しみたい派です。ていうか、和田先生のファンだから!
それとは別に! 気になるじゃないですか―! それで、ちょっと調べたくなっちゃっただけです。
追記
『忍びの国』を読み返してみて感じたことなのですが……
もしかしたら、和田先生は北畠家臣で弓の名手・大宮大之丞景連と同じく北畠家臣、侍大将で大河内合戦で大活躍した日置大膳亮を混合させて新たなキャラクタ-「日置大膳亮」を作りあげたのかな、と思いました。
作中、日置が「源為朝」と同じ五人張りの弓を扱うシーンがありましたね。
北畠家臣で「源為朝」と比べられた人物といえば、大宮大之丞なのです。絵本太閤記にあります。
「大之丞一人が矢先に射しらまされ、進みかねて見えたりける。藤吉郎是を見て大に怒り、鐙踏張り大音にて、弓射る敵は教経なるか為朝なるか」
『忍びの国』文庫本の参考文献を確認したら『絵本太閤記』とあるではありませんか! 大宮大之丞もモデルの一人なのでしょう。
北畠家臣の中でも強烈な個性を放っている二人をかけあわせ魅力的なキャラクターを創造した和田先生はやはり神です。
追記その二(2019.11.7)
『伊勢国司記略』に「日置は和名鈔に比於木と訓し~」とありました。
やはり旧一志郡の「日置」という地名は古来「ひおき」と読み、日置大膳亮も「ひおき」と読んだのだと思います。
荒井勘之蒸について
松阪伊勢寺の人。「勢国見聞集二十五巻」を嘉永四年に完成させ、紀州藩に献上。
伊勢国の各地をくまなく歩き、各書を調べ長年かけて編纂したらしいです。(『松坂市史 第八巻 史料篇』より)