信長出勢の事
ついに信長自ら勢州にやって来ました。
永禄十年丁卯秋八月のこと。
織田信長は美濃・尾張の数万の軍兵を率いて、勢州桑名に出向いて北方の諸侍を攻め撃った。これにより南部、加用(萱生)、梅津、富田以下は信長の幕下に属したのである。
その後、楠城におしよせ攻めた。(三重郡楠町本郷 領主は楠土佐守貞孝。楠木正成の子孫?)楠家は防戦したが、大軍には敵わず、降参することを申し出て、勢州攻めの先鋒を案内することとなる。
次に信長は、神戸家の家老山路弾正忠の城、高岡におしよせ、周辺の民家に火を放ち攻めこんだ。これに対し山路は力強く防戦した。
信長の軍隊は村里に入れば、必ず火を放った。このため敵は戸惑い混乱したという。
「戦に勝つには夜討ちがよい。城を破るには放火がよい」と。
その時である。濃州の氏家卜全、安藤伊賀守、稲葉一徹たち三人による謀反という話がとびこんできた。そのため、信長は還らなければならなくなった。
勢州のことは瀧川一益に抑えを任せ、伊勢衆をつけさせた。そして自分の軍隊をつれて岐阜城に還ったのである。
この謀反の話は安藤伊賀守が武田信玄と通じていたということだ。
あの、すみません。ちょっと訳し方に自信がないです。
>「戦に勝つには夜討ちがよい。城を破るには放火がよい」と。
このセリフは誰のものなのか。よくわからない。信長が言ったセリフなのかな?
神戸先生! 主語をちゃんと書いてよ―!
孫子とかにある有名な文なのかな? ちょっと検索してみたけど、よくわかりません。ちなみに原文は
「故曰勝軍不如夜伐破城不如放火」となっております。
>濃州の氏家卜全、安藤伊賀守、稲葉一徹たち三人による謀反という話がとびこんできた。
『三重県郷土資料叢書第39集 勢州軍記』の脚注によると、この謀反の話は単なるデマに終わったとのことです。




