藤方慶由の事
今回は藤方慶由の事。
具教暗殺計画に加担した藤方刑部少輔のお父さんです。
藤方(現在の津市藤方)の御所、入道 慶由は人質となって田丸に暮らしており、この時の北畠一族の状況を聞き悲しみの涙をおさえていた。
息子の刑部少輔が家臣の軽左京進に三瀬御所(具教)を討たせたことに怒り、こう言った。
「夏には孫が(紀伊の)長嶋城を落とされ、家名を失った。今度は息子が不義をして再び家名を失った! 主君といい一族といい、誰か嘆かずにいられるだろう! この報いはあるに違いない。我らの子孫は必ず滅ぶであろう。 ああ! 生きてこんな酷い話を聞くよりは早く死んで浄土に行きたい」
息子・刑部少輔はこう答えた。
「父上、私の本意ではありませんでした。すべては父上のお命を助けるためです。父上を人質にとられていたために、三瀬御所(具教)を討つ計画に加わったのです」
「おまえはその計画を三瀬御所にお知らせするべきだった! 御所が討たれたならばお前も腹を切って共に死ぬべきだった! そして我が老体が磔にかけられたならば、藤方家の面目は保たれたのだ! それが武道の本望だというのに!」
慶由は「風呂に入る」と言って出て行った。
そして深い井戸に身を投げたのである。
彼の名誉義心を世間の人は感じた。
慶由の予言通り、子孫は落ちぶれたという。子孫は大津にて宿屋をやっていたというが滅亡したらしい。
また、刑部少輔に三瀬御所を討つことを勧め、自ら御所を討った軽左京進は、ほどなくして全身がしびれる病気にかかり亡くなったという。因果応報であろう。
もうちょっとユルイ感じに訳したいと思いつつ内容が内容なだけにユルくするのは憚られます……。
>夏は孫が長嶋城を落とされ、
ここんとこ私の現代語訳では飛ばしちゃってるのでわけわかんないですよね。すみません。
いずれ、長嶋城が落とされる話も訳したいと思っています。
長嶋は長嶋でも紀伊の方の長嶋です。
追記
藤方刑部少輔(朝成)はその後どうなったか?
信雄に仕えていたようですが、小牧長久手の戦いの後、信雄から離れ秀吉の被官になりました。
朝成の子の「藤方安正」は織田信包に仕えていたようです。信包の改易後は秀次に仕え、秀次の死後は浪人していたと考えられますが、慶長元年に家康に仕えます。(高柳光壽松平年一『戦国人名辞典増訂版』より)
なので、「子孫は落ちぶれて大津で宿屋をやっていた」という勢州軍記の記述は疑問です。
寛政重修諸家譜を見ると藤方家は江戸時代も存続していますし。
私の想像ですが、安正の浪人時代に伊勢侍たちの間で「藤方さん家の安正さんはまだ仕官先が見つからへんらしいで」という噂があってそれに尾ひれがついて勢州軍記に記されたような「お話」が出来上がり伝わってしまったのかもしれませんね(;^ω^)
……ちなみに、ちょっと、私的にショッキングな話なんですが、藤方慶由=北畠国永という説がありまして……。この説が正しければ、慶由は井戸に入水していませんし、この後も生きていますね……。なぜ勢州軍記では入水したという話になっているのか謎……。これも噂話に尾ひれがついた結果なのでしょうか……。
追記2
軽左京進は病で死んだとされていますが、『伊勢国司伝記』を見ると話が違います。
「主君国司ヲ奉討故翌年ニ総身ノ疾ム病ニテ死候ト御座候左様ニテハ無御座候」
と死因が病であることを否定し、左京進は天正5年の合戦において傷を負いそれが原因で亡くなったと伝えています。