表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/69

大腹御所の事

歴史系のゲームや漫画などでデブキャラとして描かれている北畠具房。信雄の養父であり、妻・雪姫(千代御前)の兄です。

勢州軍記では三瀬の変時の彼の動向をどう記しているのでしょう。


 大御所・北畠具教の嫡男である北畠左中将は、騙されて一部屋に押し込められた。このとき、二十五才だった。

 

 太っていて腹が出ている人だったので、「大腹御所」と言われていた。

 母は六角家の娘である。夫である具教は他の女性を愛し、北の方(正室、六角家の娘)をないがしろにしていた。

 具房以外の子たちは皆、側室の子であった。具教は正室以外の女性に産ませた子たちを愛し、具房のこともないがしろにしていた。


 三瀬の変で命をとられなかったのは、信雄の養父だったからである。信雄は「親孝行」のためにと具房の命は助けたのだ。


 瀧川家に預けられ、安濃郡河内(安芸郡芸濃町河内)に住むことになった。後に、信雄は尾州の領地を具房に与えている。

 それから後、京都に移り住み、「信雅」という名に改名した。その死後、中院通勝の次男親顕が養子になって北畠の名を継いだ。


 悲しい。このときに、九代にわたる伊勢国司の繁栄は終わってしまったのだ。

 

 波瀬家、岩内家も断絶させられた。

 

 以上、北畠一族十三人が滅ぼされたのである。


 唯一残ったのは、田丸家である。三瀬の変の時、田丸御所父子は岩出(度会郡玉城町岩出字大森)の城に居た。

 知らせを受けた田丸家は防衛態勢をとった。しかし、信雄は使者を送ってなだめたという。



勢州軍記では具房のことを「信意」と表記しています。斉藤拙堂や大西源一は、「信意」は織田信雄の名であり「具房」を「信意」と記しているのは誤りだとしています。

私の現代語訳でもややこしいので「具房」と書きました。


>騙されて一部屋に押し込められた


どこの「一部屋」だったんでしょうか。田丸城の一部屋? それとも三瀬館の一部屋? 勢州軍記、その辺アバウトですよね~。


『伊勢記』を見ると

「同日被流中御所左中将具房朝臣於長嶋 大御所嫡男北畠前左中将具房在田丸隠居謀奉押篭一間所」

とありました。

田丸城の一部屋に押し込められたということでしょうか?


それと勢州軍記では「河内」に住んだ、とありますが、伊勢記では「長嶋」になっていますね。


……ちょっと、話がずれるかもしれませんが……『伊勢記』には具房と信長との仲は悪くなかった、みたいなこと書いているんですが、これはマジなの? 


「具房故信長公不悪之」


と書いてあります。(私、ちょっと漢文が苦手なので……「信長は具房を悪く思わなかった」という訳が正解なのかは保証できません(・・;)


信雄の父・信長との関係が悪くなかったので命は助かったのでしょうか?

しかも、実の父・具教との仲が悪かったということは……

北畠家は分裂状態におちいっていて、三瀬の変で信雄がサクッと一つにまとめたということなのかもしれません。



そういえば、昨年、足利義昭から北畠具房宛ての手紙が公開されたらしいですね!

京都を追放され鞆の浦に移った義昭から北畠具房への手紙らしいです。

この新史料によって具房の研究が進んで情けないデブキャラのイメージがくつがえされることを期待しています! (私も腹が出ているデブなのでw)


※後でちょっと調べたら、この手紙にある「北畠中将」とは具房のことではなく信雄のことであるという説もあるみたいです。

義昭から信雄宛ての手紙とは…!

それはそれで面白い!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ