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二十七歳
燻るように降り続いていた雨が止んだ。軽くなった雲は流されて消え、みるみるうちに晴れ渡っていく。セメントの割れ目から伸びた草がまとった水の粒が、強い光を跳ね返してビーズのようにきらめいている。
墓と墓を縫うようにひかれた、セメントで雑に塗り固められただけの、細く曲がりくねった小道を登って行く。体に無理をかけないように、ゆっくりと歩を進めた。
雨に濡れていた二宮家の墓石も、初夏の強い日差しを浴びて、あっという間に乾いてしまいそうな勢いだ。
花立てに、あじさいの切り花を生ける。青の鮮やかなものを選んだ。苑子の好きだった青。私たちがともに過ごした団地にも、たくさんのあじさいがあった。今も咲いているのだろうか。
線香をあげて、手を合わせる。六月の末、梅雨明けもまだだというのに、気の早い蝉がもう鳴き始めている。
立ち上がって墓石の向こうを見やれば、遠く、水色の海が光っていた。
丘の斜面を切り開くように作られたこの墓地にも、時折、風にのって潮の香りが運ばれてくる。額に汗が浮かんで、バッグからハンカチを取り出して押さえた。
「大丈夫? 気分悪い?」
「平気よ。ただ暑いだけ。もう、このまま梅雨も明けるのかな?」
差し出されたペットボトルの水を飲む。
「ありがとう。美味しい」
「まだ時間あるし、浜にでも行ってみる?」
頷くと、ハルは、私の手を取った。古い墓地は綺麗に区画されているわけではなく、墓の間の小道も入り組んでいて、坂も急だし舗装もひび割れているしで、うっかりつまずかないように気をつけなくてはいけなかった。
「そこ段差あるから。気をつけて」
「大丈夫だってば、ちゃんと注意してるから。前から言おうと思ってたけど、ハルはナーバスになりすぎてるよ」
「心配して何が悪いんだよ? 果歩はすぐ大丈夫大丈夫って言うけど、どんなに小さいことでも無理しないでちゃんと言ってほしい」
「ほんとに大丈夫だから。最近体調もいいし、何を食べても味が変だったのが、今は嘘みたいに爽快なんだから」
墓と墓の間の雑草が伸びていて、風が吹いてさやさや音を立てている。
坂を降りきったところの、路肩に車を止めていた。助手席に乗り込んでシートベルトを締める。と、またしてもハルが、「苦しくない?」と聞いてきたから、私は呆れてしまった。
「それ、何度目よ?」
「だって」
ハルはエンジンをかけてエアコンを入れた。
「それよりさ。海水浴場の近くの定食屋がうまいって言ってたよな、おばさん」
「うん。折角だし、食べて行こうか」
今日は苑子の命日だ。丁度、私とハルの休日が重なった。苑子のお母さんに連絡すると、在宅だということで、お邪魔して仏壇に線香もあげさせてもらった。古いけれど手入れの行き届いた和風家屋で、縁側から、小雨を浴びる庭の緑が見えた。
「ずっと覚えていてくれることが嬉しいのよ」
そう、苑子のお母さんは言った。痛みはずっと消えないけれど。苑子のことを想ってくれる人がいることが支えだ、と。
「千尋さんのこと。ずっと大変だったのね、聞いたときは本当に驚いた。もう何年になるかしら?」
「来年、七回忌です」
ハルが大学四年の時に、千尋さんは亡くなった。最初の入院から五年が経っていた。化学療法と二度の手術を経て、一旦は仕事にも復帰していたのだけれど。定期検査で新たな転移が見つかって、それからは坂道を転がるように、あっという間だった。
当時まだ看護学校に通っていた私が、いつか千尋さんと一緒に仕事がしたいと言ったら、「私、職場の若い子に、陰で鬼って言われてるんだけど。果歩ちゃん大丈夫? 覚悟してよ、手加減しないからね?」と、笑っていたのに。
手を伸ばせば届きそうな夢だったのに、叶わなかった。
「……速いものね、時の流れるのは。歳をとるほどに速く感じる。どうしてなのかしらね」
苑子のお母さんは淋しげにほほ笑んで、
「私も早く向こうに行きたい。苑子もいるし、苑子の弟もいるし、千尋さんもいるでしょう? 楽しいでしょうね」
そう言って、麦茶を飲んだ。
それから。私たちの近況――ハルは大学院を出て県内にある検査薬メーカーに勤めていて、私は看護師として総合病院に勤務していること――など、聞かれるままに話して、穏やかに時は過ぎ、また来ますと告げておいとました。
玄関先で、別れ際に。
「赤ちゃん、生まれたら。またいらっしゃいね。苑子も、きっとすごく喜ぶから」
いきなり、言われた。反射的に、はい、と返事をしたものの、私もハルも、すごく驚いてしまっていた。
どうしてわかったのだろう。
安定期に入ったばかりで、まだおなかはわずかに膨らんでいる程度で、服を着れば完璧に隠れてしまうのに。
「もし苑子が生きていたら……」
苑子のお母さんは、言いかかけて、きゅっと口を引き結んだ。そして、そっと手を伸ばし、私のおなかに触れた。
車は走る。
無意識に、おなかに手をやって撫でていた。ハンドルを握るハルが、そんな私を見て、
「やっぱり苦しい?」
と聞いてきたから、私は少し笑って、首を横に振った。
浜辺はひどく蒸し暑かった。雨上がりの、人のいない海水浴場。優しい波音と、濃い潮の香り。粒子の細かい、湿った砂を踏んで歩く。
青い空のもと、水平線の間際で、光の粒が躍っている。延々と打ち寄せては引く波を見ていたら、永遠、という、在りもしないものに思いを馳せずにいられない。
ふと足元に目をやると、何か小さいものがきらりと光った。かがみこんで拾う。
水色の、シー・グラス。
「どうした? 果歩」
「たくさん落ちてるね、ここ」
波にもまれた、優しい青のかけらが、貝殻や流木と一緒に打ち上げられている。歩きながら拾っていく。緑のもの、透明なもの、茶色の硝子もある。私は、青だけを、拾って。あつめる。
海からの風に、髪が靡いた。立ち止まった私は目を細めて、空と海の果てを見つめた。ハルがそっと私の肩を抱いた。いま隣にいるいとしいひとも、私も、いつか、あの果ての向こう側へ行く。それでも。
「果歩、何考えてるの?」
「何も。綺麗だなって、それだけ」
「俺は、名前考えてた」
少し照れたように、ハルは笑った。
とくん、と。小さな鼓動が、私の中で、響いた。
了
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